緒言
わたしが小説形態の文章を初めて書いたのは二十歳の頃。それは、どこに出しても恥ずかしくない、掛け値なしの私小説だった。何もかもがむき出しで少々不躾過ぎるため、今までどこにも発表していない。――つまり、この作品である。
あれから幾つもの作品を上梓してきた。中にはただの絵空事にしかなり得ない物もあったし、真実を含んでいても、純粋につまらない物もあった。だが、新しい世界を創出するという、この素晴らしい体験、この壮絶な作業を生涯の仕事と出来たことに後悔はしていない。パスカルの葦、聖書の塵芥である卑小な生き物――人間――にとって、世界を憎むことは容易な作業ではない。丁度ティーカップに風呂の水を注ぐように、人間の脳は世界の大きさを捉えきれない。だからこの小説に描かれるこの小さな人間、高江明は、周囲の世界を自分の弱々しい創造物で塗り替えることによってしか救われなかった。
「わたし」と「彼女」の物語は、人々が無邪気に信じる人間性に反するものだ。この小説を「私小説」と銘打つことは、わたしにも「彼女」にも大きな傷をもたらすだろう。
わたしは、本書に見るように怯懦に満ちた人間である。だから、この文章が一般に公開されるのは、「わたし」と「彼女」がこの世に別れを告げた後にならざるを得ないのだ。
わたしの尊敬するある作家がこんな言葉を残している。長年連れ添った妻について、「まだ愛情を抱いていますか?」とインタビュアに尋ねられた彼はこう答えた。
「まさか。こんなに長い間一緒に居たんだ。妹みたいなものだよ。妹に恋愛感情を抱くかね?」
この言葉はわたしにとっても至言である。空想の中でわたしがこう聞かれたとしたら?
「あなたはまさか、実の姉に恋愛感情を抱いていたのですか?」
わたしはこう答える。
「まさか。こんなに長い間一緒に居たんだ。妻みたいなものだよ。姉に恋愛感情を抱くかね?」
わたしが最初に獲得した読者は彼女だった。本作品後半部に掲載されている書簡の抜粋は、わたしが手書きで、安物の便せんにひたすら綴ったものだ。彼女は後に、それを読んで簡単に評した。
「何を言いたいのかさっぱり分からなかったわ」
わたしはその時、生まれて初めて心から笑った気がする。
彼女の言葉が端的に表すように、この作品には全く価値がない。深刻ぶったウェルテル気取りの少年が一人いて、浮世離れした血の通わぬ少女が一人いる。彼女が読めば多分笑うだろう。辛辣な言葉で評したかも知れない。
「こんな女はいないわよ」
だが、今のわたしはそう言われても傷つかない。わたしはもう、人間を「描写」できる、などとは自惚れていない。わたしに出来ることは、粘土をこねくり回して「人型」を作ることだけなのだ。
この作品をわたしは長い間嫌ってきた。あまりにも稚拙な思想が、稚拙な手法で表現されているからだ。そして覆いを剥ぎ取られた生の感情は、いつも醜い。わたしの仕事は、そんな生の感情に新しい服を着せてやることで、貧相な裸体を見せびらかすことではない。
だから、嫌悪に反してこの作品の公開を許可したのには訳がある。
とてもシンプルな理由だ。
つまり、自分の死後に、わたしは興味がない。わたしは「彼女」と長い人生を共に生きた。それはわたしが持つ最良の記憶である。しかし、人間は、死出の旅に宝石を持っていくことは出来ない。身一つで赴かなければならないのだ。
「彼女」は三年前に亡くなった。そしてわたしも死んだとき、ここに綴られた感情も無くなる。光は、誰もそれを見る者が居なくなれば、光ではなくなる。そこに「在る」のは、名もない「何か」に過ぎない。わたしたちの物語も、当然名もない「何か」になるのだろう。
その意味で、この作品は完全な私小説なのだ。
高江 明
光について 了
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