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光について

第3部 第4回





 高江明は二十歳になった。四年ぶりに帰ってきた街は、高校時代の情景を完全に保存している。昔自転車で必死に登ったこの道を、彼はゆっくりと歩く。
 
 金山町は坂の多い町だ。駅を最底部としてすり鉢状に街区が広がっている。彼に与えられていた配達ルートは新聞店のある駅前から始まり、ひたすら東に向かって坂を上っていく。往事の景色が彼の視覚と二重になって、不思議な感慨を催させた。
 中規模の車道に並んだ家々を眺めながら、朝靄の中を歩いた。口の中に空中の霧が飛び込んでくる。爽快感はない。登りは地獄の東坂。
 履き古したジーンズに、もう何年も着古した白いボタンシャツをTシャツの上に羽織っている。彼の身体は、もう少年のものではなかった。長身には贅肉がない。服を通しても分かる筋肉の動きから、男の肉体が頑強であることが容易に想像できる。短く刈った髪は、髪質が硬いのか、中途半端に立ち上がっている。しかし、朝靄をたっぷり含んだ大気が、いずれ宥めいなしてしまうだろう。
 
 早朝の六時。彼の鈍行を追い越しゆく車はほとんどない。町はようやく暗がりを抜けていたが、青白い空に透ける月はまだ居場所を残している。
 
 すり鉢の頂上、隣町との境に大きな屋敷がある。延々二キロ、配達行の終着点であるこの家を目印に彼は毎日ペダルを漕いでいた。そして今また、この家を目指して黙々と坂を登る。右手に提げたボストンバックが、歩行に合わせて上下する。この坂は、一気に登り切らなければならない。疲れた肺と脚の筋肉は、ぐるりと低木の生け垣に開いた巨大な門の前でのみ休息を許される。耳の中でドクドクと脈打つ鼓動音とペースをあわせ、アスファルトを踏みしめていく。額に浮いた汗が、首を振った折りに地面にまき散らされる。一歩、二歩、三歩、四歩。口の中で数えながら脚を前方に投げ出していく。無心に歩くことこそ、唯一時間を忘れる術であることを彼は知っている。灰色から鮮やかな青に変わっていく空をみることもなく、そして明は大門にたどり着いた。
 
 
 
 
「天嵩」
 
 門に掲げられた表札は古ぼけていて、家の格式を無言のうちに伝える。地面のアスファルトはいつのまにか門の周囲に敷き詰められた石畳へと変わって、公道と私有地の境を明確に示していた。
 履き潰したスニーカーのソールが、濡れた石畳とこすれて小さな悲鳴を上げる。世界が全て、海中に没してしまったかのような感覚。頬に張り付いている湿気は湿気の度を超して、液体に変わる。男の首元から沸き上がってくる体温に熱せられた空気が、顎を通ってこめかみへ届いた。

 彼は一度バッグを足下に置くと、両手で門に力を入れる。ゆっくりと、人一人通れる隙間が出来た。
 
 門をくぐったところで不意に背中に気配を感じて振り返る。彼は内心の歓喜を押さえることもできずにただ立っていた。
 
「灯」
 
 ついでに口を衝いて出たつぶやきが存外に響く。木霊は瞬時に広い天嵩家の庭先に拡散し、肌を刺す冷気を震わせた。
 
「…明?」
 
 やはり思い過ごしではなかった。女の声だ。男とは違う、高純度のガラスのように透き通っている。明は無表情だった。今このときに相応しい表情など、彼は持ち合わせていない。
 
「灯。相変わらず朝早いな」
 
 彼は努めて明るくそう言い切ると、手に持ったバッグをかざす。
 明のすぐ後ろに女が立っている。彼の一八〇センチを越える長身と比べれば、女はひどく儚げに見える。細い首筋。朝靄のせいか、しっとりと濡れた長い黒髪を背に流して、滑らかな肌にはしわ一つない。濃緑のブラウスの上に、クリーム色のカーディガンを羽織っている。木々と家屋と二人の影が、渾然一体となって、地面に薄い染みを作っていた。
 
 天嵩灯は美しい女だ。
 陶器のような肌と黒く光る大きな瞳は変わらなかったが、その瞳には、開花を始めた桜の蕾みように生硬でありながら、将来の柔らかい花弁を想像させる色がある。彼女の白は、全てを拒む白ではない。薄い唇に紅は引かれていないはずなのに、頬の白から浮かび上がるそれは桃色に輝いていた。
 高校時代とは違う。彼女は少女ではない。成熟しているわけではない。だが、成熟を志向する意思がある。
 
 手入れされた爪をそろえて女の手が彼の鞄を受け取る。重く沈殿した空気の中を泳ぐように、その手は宙を漂っていた。
 
「おかえりなさい。明」
「ただいま」
 
 指環の銀が女の肌に溶けていた。
 
 二人は手を握る。
 
 何事も段階を踏まなければならない。
 口づけを交わす前に、抱き合う前に。
 



 まず二人には、手をつなぐところから始める必要があったのだ。







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