抜粋12
ぼくが自分で死を選ぶことなどありません。人生が絶え間ないサイコロ転がしだとすれば、死はただそれを止めることに過ぎないからです。死は全く意味を持ちません。『ない』に実体が存在しないように、『死』は存在の欠如でしかないように思われます。
しかし、こんな抽象的な話は止めにしましょう。人間の、対象を抽象化、概念化する能力は、便利であると同時に、時々酷くやっかいな作用をもたらします。
「死」「愛」「人生」「夢」「感情」。もう何年もあなたに会っていないのですから、ぼくの思考は手綱を緩めた瞬間に、こんな甘美な幻想に飛びつこうと必死になってしまうのです。結局この世には、「死」も「愛」も「人生」も「夢」も、そして、「感情」も存在しません。ただ、小さな出来事の総和を我々が勝手にそう名付け、事態を簡略化できたと勘違いしているのでしょう。ですが、事態は簡略化されるどころか、一層難度を増して、わたしたちの前に立ち現れます。
家を出て数ヶ月、カプセルホテルを点々としながら、行くあてもなくふらふらと漂っていました。生きていくためには何らかの仕事に就かなければならないと分かっていながら、持ち出した貯金を食いつぶし、ひたすら彷徨っていました。放蕩には理由がありません。ただ、他にすることがなかったのです。つまり、これもまた欠如の一形態。「死」が存在の欠如であるように、流離は「意思」の欠如態なのです。
貯金も尽き掛けて、ぼくは千葉の外れで、建築現場に潜り込みました。身体が人並みに大きかったことが幸いしたのか、年齢住所を詳しく問いただされることもなく、住み込みで働くことができました。
ああいう肉体作業というものは、存外に素晴らしいものです。何しろ破砕器の轟音のお陰で他人と会話は出来ず、身体に掛かる負荷のお陰で、夜はなにも考えずに速やかに眠れます。
教室の四分の一ほどの大きさの大部屋に、大体六、七人が寝起きしていました。仕事を終えて部屋に戻ると、色々な国の言葉が飛び交います。ぼくは詳しく分からないのですが、中国語、韓国語、後は、東南アジアの言葉。全てが美しく聞こえます。意味を剥ぎ取られた言葉は、純粋に発声の美でしか判断できません。
娯楽の中心は、基本的に酒です。むしろ、酒以上に根本的なものは存在しません。日本酒、ビール、焼酎。大体定番はこの三つで、毎日飲んでいると、自分は酒を飲むためにこそ存在しているのではないかと錯覚するほどに、この娯楽は強烈でした。ぼくは酒を美味いとは思いません。ただ、いい点があるとすれば、酒は色々な垣根を取り去ってくれる。この一事に尽きます。言葉の通じない人々と、適当に酒を煽るだけで、いつしか肩を組んで笑い合うことができるのです。あなたは嫌悪を或いは抱くかも知れませんが、これはこれで理にかなった儀式なのです。
例えばあなたを抱こうとして果たせなかったあの日、ぼくは酒を飲んでいればよかった。酔って責任を放棄してしまうのは、やはり不真面目な態度でしょうか? ぼくはそう思いません。時々素面では判断できないことがこの世にはあります。身動きが取れなくなって、馬鹿みたいに拗ねて家を飛び出すならば、酒でも飲んでひと思いに決してしまうほうが、よほど建設的な気がします。
ぼくはあなたを侮辱していますか? 決してそのつもりはないのです。ただ、もう一年以上顔を合わせることもなく、一時の昂ぶりが姿を消してみると、深刻ぶった仕草は滑稽に思われます。全世界の罪悪を背負っている。そんな風に思い詰めていた自分の卑小さを思い知らされます。ぼくとあなたがどう生きようと、結局のところ、世界は何事もなかったように続くのです。それをさも周囲の全ての人々と戦っているように感じるのは、橋の下の川水に映った自分の顔を敵視して吠える犬のようなものだと、最近ぼくは気づきました。
あなたがこの一年を過ごしてきたのと同様、ぼくも色々な人間と出会いながら過ごしてきました。誰もぼくの過去を――或いは名前すらも――気にしないここでは、全てが上手く回っています。ぼくはよく笑い、よく飲み、よく歌い、よく泣きます。言葉も通じない世界では――もちろん通じる人も多くいますが――仮面など無意味です。ぼくはここで、ただ一つの肩書きしか持っていません。最初はネコ(土砂運搬の一輪車)で掘り出した土を運ぶ係、最近は、破砕機で地面を穿つ係。ぼくの役割はこれだけです。そして、仕事を離れれば、ぼくは一人の人間でしかなく、父からも母からも、あなたからさえも切り離された、一人の若者に過ぎません。
きっとそれは幸せなことです。
灯。
あなたを愛しています。
しかし、その愛には大した意味がありません。本質的にどうでもよい男が、本質的にどうでもよい女に執着を抱いているだけです。全てのレッテルを放棄した地点で、遺伝や道徳になんの意味があるでしょう。それもまた、結局はどうでもよいことではないでしょうか?
あなたを恋しく思うことが無いとは言いません。ただ、その恋しさは、肉親を求めるそれではありません。過去の記憶や、後ろめたい思いにすら、なんの意味もないのですから、ぼくにとって、あなたはもう「特別の価値」を付与された女ではありません。
いつかあなたに会いに行きます。
抜粋13
灯。
ペットボトルがどうやって作られるか知っていますか?
ペットボトルの原型は、試験管のような小さな円筒形のプラスチックです。ラインに載って流れてきたそれは、大きな三つの炉で段階的に熱加工され、店頭に並ぶ大きさにまで変化していきます。
工場の中は、冬だというのに酷く蒸し暑く、特に炉の近くに寄ると、鬱陶しい防塵着をむしり取りたい衝動に駆られます。けたたましい音を立てて流れてくる試験管もどきを、箱に入れては戻し、傷を確認して、再び送り出す。この作業の中には、他者は存在しません。
朝の七時から夜の七時まで、あるいは、夜の七時から朝の七時まで、淡々と出し入れを繰り返していると、不思議な感興に襲われます。たぶん人間が獣化する過程にあるのでしょう。一面辛く、一面とてもスリリングな瞬間です。
唐突に、性欲が身体を支配します。どこから沸き上がってくるのか、全く分かりません。ただ、無性にあなたを思い出します。精根尽き果てて、一片の余剰体力も残っていないというのに、ただあなたを貪りたいと願います。男性の性的興奮は外見上の変化を伴いますが、誰に憚り隠す必要もありません。作業場にはぼく一人しか居らず、猥談に興ずることすら出来ないのですから。
あなたは汚らわしく感じるでしょうか? ぼくにとって、あなたはもう神化された存在ではありません。ぼくの想像の中で、あなたはいつもぼくの欲情にまみれています。ぼくはあなたのことを考えるとき、性的な衝動を懼れません。もちろん、あなたが受け入れようが受け入れまいが、それはどうでもよいことです。ぼくは現実のあなたに何かをしたいとは思いませんから。
ではなぜ、こんな直截きわまる内面を書くのでしょう。それはきっと、あなたに知って欲しいからなのです。ぼくがあなたを力づくで犯そうとした日、ぼくは性欲から行動したのではありませんでした。正確には、性欲も少しはありましたが、大半は、自分自身を傷つける為に行動していたのです。つまり、あの時ぼくは、あなたを自傷の道具にしていたのです。自分を辱めるためにあなたを使うよりも、快楽のために使う方が、より実りがあると思いませんか?
「愛」という気取った概念をかなぐり捨ててみれば、あなたとぼくの関係はより豊かなものになります。頭の中で理屈をこね回し、難解な定義を繰り返して作り上げた「愛」の伽藍よりも、あなたと抱き合い、あなたの乳房を貪り、あなたの腰を掴むぼくの手のほうが、よほど真摯ではありませんか? 括弧付きの「人間」として愛するよりも、「生物」としてあなたを求めるほうが、より美しくはありませんか?
毎日無機質の機械に囲まれていると、そんなことを考えます。
心が欲しい、などという言葉は戯れ言です。ぼくはあなたの身体が欲しい。目も、耳も、鼻も、腕も、足も、全部欲しい。
灯。
抜粋14
色々な経験をしました。食パンの袋詰めもしましたし、引っ越しの手伝いもしました。前に書いたように、土木工事もしましたし、ペットボトルも作りました。
大人になるということは、つまりそういうことなのだと思います。理不尽な扱いを受けることもあれば、思わぬ親切に出会うこともあります。馬鹿にされ、足蹴にされることもあれば、笑みと共に受け入れられることもあります。
高校という小さな枠。家族という小さな円環の中で考えた様々な事柄は、全てがつまらないものではありませんでしたが、大半は価値がないものかも知れません。
ぼくたちは、社会の中で生きています。労働を売り、得た金で命をつなぐことで生きています。誰とも縁のない、孤独な人間など居ません。どこまで逃げても何かの紐帯に絡め取られ、紐が許容する所までしか行けません。
ぼくは前に、「全ては偶然だ」と書きました。産まれたのも、生きるのも、死ぬのも、全てはサイコロの目に過ぎず、等しく価値はないと書きました。
今、ぼくは率直に誤りを認めなければなりません。全ては偶然です。ですが、偶然だから価値がないのかといえば、それは違います。ぼくが、そしてあなたが、今も生き続けていることには、明らかに価値があります。人間には、自らの生を放棄する手段を与えられています。しかし、ぼくはその手段を選択しようとは思いませんでした。今まで一度たりとも、です。
つまり、悲惨に耐えて生存し続けるということは、耐えた悲惨と等価以上の価値を、生存に認めているということです。ぼくは確かに、生きることに価値を認めています。
同様に、あなたに執着し続けるこの感情にも、きっと意味があるのです。あなたを忘れてしまった場合に感じられるだろう貴重な平穏を、帳消しにして余りある幸せ(つまらない言葉ですが)をぼくはあなたに求めています。
やはりこの感情は、愛という言葉に回収されるべきかもしれません。
認めます。これは有り触れた愛です。なんら特別なところはありません。
抜粋15
二十歳になりました。
抜粋16
この手紙を書き終え次第、あなたの住所へ、ぼくが知りうる、あなたが唯一存在する場所へ、全てを投函します。
余計なものは全てそぎ落としてきました。長い回り道をしてきた気がします。もう三年も四年も、あなたを想い続けて生きてきました。
昔の手紙を読み返すと、苦笑混じりのため息をつくばかり。
結局のところ、単純であることは全てに勝るのです。
あなたを好きならば好きと言えばよかったし、抱きたければそう言えばよかった。他愛ない言い訳をこねくり回していました。
もう下らない些事を肴に自慰に耽るのは止めにします。
灯。
ぼくは一人の女性として、あなたを愛しています。
もう長い間会っていないのですから、ぼくが抱いている想いのほとんどは、ぼくが脳内で作り上げた虚像かも知れません。でも、それを確かめる方法があることに、ぼくは気が付きました。
ただ、あなたに会いに行けばいい。
再び会って幻滅するかもしれないし、肉親の印象を強くするだけかもしれません。でも、とにかくもう一度、あなたと話をしてみなければ、答えは分かりません。
灯。
あなたはもう、ぼくの光ではありません。
あなたを眩しく感じて、目を覆い背を向けることもありません。人間は光を発したりはしないという、そんな当たり前のことに、ぼくはやっと気が付きました。
あなたと一心同体になることも不可能でしょう。あなたは一人の他人で、ぼくもまた、あなたにとって他人でしかありません。
あなたには幾つかの選択肢があります。
ぼくを弟として扱うならば、ぼくはあなたを姉として扱います。
あなたがぼくを、「疎ましい」他人として扱うならば、ぼくはあなたの前から居なくなります。
ぼくに選択する権利がある以上、あなたにもその権利は当然あるのですから、ぼくの感情を受け入れる義務などありません。
あなたにとって、ぼくの存在は既に、記憶庫に格納された事務書類の一束になっているかもしれません。恋人がいて、結婚さえ考えているかもしれません。
あの日、あなたと「一緒にいない」ことを選択したぼくにとって、あなたの決断に異を唱える権利はありません。
ですが、もしあなたが、ぼくを「好ましい」他人と今も思っているのならば、ぼくを迎え入れて下さい。
放蕩の終わりを、あなたの胸の中と定めて下さい。
貰った万年筆も、完全に手に馴染みました。
随分長い回り道をしてきた気がします。
明日、帰ります。
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