抜粋1 ――全書簡冒頭としての――
灯。
書き溜めた文章を人に見せるというのは、すごく恥ずかしいことかも知れません。この文章があなたの目に触れる日を想像すると、今直ぐ紙を燃やしてしまいたい衝動に駆られます。
今日の午後、ぼくはあなたを犯そうとしました。どうしようもなくいきり立っていて、恨みと性欲にまみれて、あなたを押し倒していました。愛していたのかと尋ねられれば、ぼくは簡潔に「いいえ」と答えなければなりません。なぜかいろいろなことに苛立っていて、いろいろなものを滅茶苦茶に壊してしまいたくなったのです。そんなぼくにとって、あなたは傷つけるのに最良の相手でした。
上述の答えと比べて、もう一つの質問に答えるのは容易ではありません。つまり、「今は悔いているか」という質問にたいしてです。
二つの答えがあります。一面でぼくは、自分の行動を悔いています。ぼくはその身勝手であなたを恐れさせ、いろいろなもの、例えば信頼や友愛(あったとするならば)を破壊してしまいました。あなたと今後も普通に接することは、たぶん出来ないでしょう。少なくとも、ぼくの側からあなたに働きかけることはできません。
ですが、もう一方で、満足してもいます。もうあなたを恨む必要はないし、無い物ねだりをする必要もないからです。ぼくが自分の本心に気が付くことが出来たのは、あの行動があったからだというのは、ぼくの中では疑いえない事実なのです。だから、今、ぼくは、犯した罪の重大さに怯えながら、同時に、驚くほどすっきりした気分です。
あなたのことを近所の公園(家の側にあるあの森林公園です)で考えました。ぼくは夕飯に食べたものを全て道ばたに吐いた後、ベンチに寝転がって空を見ていました。何もかもが嫌になって、ただぼうっとしていたのです。
特に変わったことはありませんでした。偉人の伝記に出てくるような回心は、最後まで訪れませんでした。ぼくはただ、あなたのことを考えていました。
ぼくはいつからあなたのことを恨むようになったのでしょう。それはたぶん、あなたと引き離された次の日からです。朝目覚めたとき、あなたの長い髪に触れることが出来ない。それは明らかに、「不条理な」ことでした。それはあってはならないことで、憎むべきことでした。
父と暮らし始めて、やがてぼくはあなたを忘れました。小学校、中学校と、ぼくは淡々と生きてきました。決して人に話して楽しめる時間ではありませんでしたが、とにかくぼくは生きてきました。中学校では、二年ほど、学校で口を利くことすらありませんでした。幼い頃から口べただったぼくですが、あなたと離れて、一層口べたに拍車が掛かったようです。もちろん、会話がなかった原因はそれだけではありません。もっと単純なこと。つまり、話す相手が一人も居なかったのです。
ぼくはあなたを夢想すらしませんでした。薄っぺらい運命論に取り付かれはじめたのも、この頃です。
人間というのは、予想以上に恐ろしいものです。一人では立ち向かうことが出来ない、巨大で、無慈悲で、冷たい生き物です。
ぼくは刃向かうことさえできませんでした。ぼくが彼らとは「違う」生き物である以上、意思疎通は不可能です。例えば鳥と魚は、捕食する、あるいはされる瞬間にしか、お互い接する機会を持てないように、ぼくもまた、彼らとの接触は常に、襲う・襲われるの関係でしかあり得なかったのです。
最初、ぼくにとって世界はとても敵対的なものでした。命を取られることはなくとも、安らぎや幸せをそこで感じることができるなど、想像すらしていませんでした。何故自分が弾かれるのかも分からぬままに、悄然と「彼らの」規則に従う以外なかったのです。おまえは羽根を持っていないといわれれば生やそうと必死になり、嘴が足りないと言われれば、一生懸命がま口を尖らせてみる蛙のようなもので、何をしても物まねにしかならず、随分と苦しんだ記憶があります。
長じて人並みに外側を装う術を覚えても、依然として空虚でした。ぼくは自分が他の人間たちと「違っている」と思ったことは一度もありません。例えばそれこそ羽根でも生えていれば諦められたのです。ですが、ぼくはどこを取っても人間で、爪弾きにされる謂われなど全くなかったのですから、どうすればよいのか分からず途方に暮れていました。
ぼくはそして、「人間たち」を観察する術を覚えました。彼らはある一定の刺激を受けると、特定の反応を示す生き物です。日々起こる判定イヴェントを上手く摺り抜けてやれば、彼らはいつも満足してくれます。言って欲しいこと、言って欲しくないこと。して欲しいこと、して欲しくないこと。その判定の基準は各人に差があり、正確にその差を理解することによってのみ、ぼくは安全な場所を作り出すことが出来ました。
ぼくは高校に入学し、早々に自分の居場所を定めました。誰かと深い仲になることは避けていましたが、気軽な会話を出来る程度の関係は常に保ち、半ば皮膚のようになじんだ薄ら笑いをいつも浮かべていました。
夏休み前、ぼくはあなたと廊下ですれ違いました。その時のことはよく覚えています。夏服の軽快な足取りであなたはやってきて、ぼくたちは一瞬目を合わせました。
夏の盛りも近いというのに、涼しい日でした。渡り廊下のガラス越しに入ってきた光が、あなたの髪の黒に吸収されるさまを、ぼくは振り返り、ずっと見ていました。
これは詩ではないのだから、変な形容詞を付けるのは止めにします。『天使のような』『目映い』『甘い黒髪』 ぼくがあなたを描写する上で、そのような言葉を使うのは空しいだけだし、なによりも事実に反しています。ただぼくは、あなたの生気に惹かれました。あなたにはおよそ悩みがない。友人たちと笑いながら歩いていく姿がぼくに与えたものは、感嘆や称賛や美に対する崇敬ではなくて、憎しみでした。
ぼくはあなたが同じ高校に在籍していることも、半ば偶像のような人気を誇っていることも知っていました。
あなたは全てを持っている。世界はあなたを受け入れていている。それだけに止まらず、中心に仕立てようとさえしている。
正直に書くならば、憎しみですらないでしょう。たぶんぼくの中にあったのは、自嘲でした。自分が惨めに思えてなりませんでした。あなたと会話をするだけでも、たぶん迷惑になる。考えると、何もかもが疎ましく思われます。
当然ぼくも手にすることができるはずだったもの――友人や、恋人や、趣味や、時間――が、不当に取り上げられている。そう思いこんでいたのです。
ですが、自分の胸中を誰かに打ち明けようとは思いませんでした。自分自身が自覚していなかったのだから、打ち明けようがありません。あなたの近くにあって、この泥をあぶり出されることを本能的に嫌ったのでしょう。ぼくはただ、あなたを「疎ましく」感じ、「関わりたくない」と強く願っていました。
父が事故で死んだと知らせを受けたとき、実のところほとんど動じることもありませんでした。ぼくにとって父はただ一人の身近な人物でしたが、同時にぼくを囲む世界の源泉でもあったのです。確かに「不幸な」事故でした。でも、それ以上の感情は湧いてきませんでした。
葬式もしていません。父の職場の同僚とぼくは、近くの焼き場で父の遺体を焼きました。小さな壺に遺灰を入れて部屋に持ち帰り、それっきりなにもしていません。仏壇や変な札(位牌というそうですが)を買ったところで、何らかの意味があるとは思われません。
もしあなたが何らかの供養を行いたいと思うのならば、どうぞそうしてください。当たり前のことですが、あなたも父の娘である以上、その権利があるはずです。
長々と書いてきて、結局なにも伝えられていないような気がします。
ぼくの文章が悪いのか、言いたい内容が纏め切れていないのか、たぶんその両方でしょう。
一つだけ、はっきりと伝えておきたいことがあります。誰しもそうでしょうが、ぼくもまた、自身の内面を全て書き尽くすことは不可能なのです。
だから誤解しないで下さい。確かにぼくは、あなたを憎んでいました。あなたの幸せを呪い、自らの境遇を憐れんでいました。ですが、それだけではないのです。意識の底流にこのような負の感情を抱えながら、一方であなたを希う、綺麗な言葉で言えば、希望に近いものもまた、抱いていました。
ぼくが今晩、月のない夜の空を眺めながら気が付いたのは、まさにその感情でした。上手い言葉が浮かんできません。
とにかくぼくが、その名無しの感情に気づくためには、ぼくはあなたを襲う必要があったのです。あなたを押さえつけ、自分の逆恨みと対決してみる必要があったのです。
自己弁護をしているわけではありません。ぼくはあなたに赦しを請うでしょうが、赦されることを望んではいません。あなたが写真を撮って、その時の自分を忘れてしまわないように記録するのと同様に、ぼくは紙に書いて記録することにしただけです。
この文章をあなたが目にすることがあるかどうかは分かりません。
そしてまた、あなたが目にするかどうかは、一義的な問題ですらありません。
この文章は根本的にぼくのために書かれています。数日前に撮ったプリクラのように、はさみで切り取ってお互いが分け合うような類のものではないのです。
しかし、あなたに向かって書きます。ぼくの今までの人生が、常にあなたから湧き出す光の反射としてあったように、ぼくの心を描くにも、やはりあなたの存在が必要です。
結局のところ、ぼくはあなたを必要としているのです。
そう気が付きました。
抜粋2
灯。
あなたの作る食事を食べられるようになったことは、意外な仲直りの最高の副産物かもしれません。
中華が苦手といいながら、自信が透けて見えるのが可愛らしく思えると言ったら失礼でしょうか。
あなたが料理をしている姿を見ていると、いつも手助けをしたくなります。特に今日のように大きな鍋を使っている日には、居間でテレビを見ている振りをしながら、心の中ではずっとあなたのことを考えています。中華に使う鍋は大きすぎて、何かの拍子にあなたがひっくり返してしまうのではないかとびくびくしながら、一方で、できあがりつつある料理の匂いを、嗅覚の鋭い犬のように鼻先で追っています。実のところ、テレビの音量はごく低く落としていました。あなたが無意識に歌う鼻歌を聴く方が、下らないニュースなどよりもよほど価値があるのだから、仕方ありません。油の弾ける音がか細い鼻歌を掻き消してしまうとき、ぼくは油にさえ嫉妬しているようなのです。
あなたの態度は意外でした。実のところ、平静を装いながら、携帯電話のボタンを押す指は震えていたし、耳元に押しつけても揺れが止まりませんでした。メールにしようかと思ってはみたものの、それはやはり卑怯な気がして(もちろん、文字を打つやり方が分からなかったというのもありますが)電話で直接伝えることにしました。
ぼくはあなたの自然な反応が怖かった。あなたは数日前と全く変わらず、相変わらずの優しい口調でした。怒るどころか、ぼくが電話してきたことを喜んでいるようでさえありました。
ぼくは真摯に謝ったつもりです。一度諦めたとはいえ、希望が出れば縋りたくなるもので、最後には、許して貰えるのならばどんな無理難題も――それこそ、死ねと言われれば死んでもよいと思えるくらい――聞き入れるようになっていました。
あなたは昨日の出来事にほとんど触れませんでした。ただ、気にしないでいいわ。そう言ったきり、話を逸らしてしまう。ぼくは真摯でありたいと思いながら、やはり卑怯でした。あなたが触れたがらないことに、敢えて触れようとしなかったのです。
他愛ない日常の会話をするとき、ぼくはいつも脳裏で絶え間なく計算を繰り返してきました。相手の言って欲しいことを常に先回りしようとして、そのやり方がほとんど癖になっていたように思います。
だから、あなたとの会話は驚きです。電話の受話器を通して耳元に直接入ってくる声を聞きながら、ぼくは先回りをしようと考えてはいません。ただ、ぼくが言いたいことを言おうとしているのです。
人との会話を本当に楽しめたのは、きっとこれが初めてのことでしょう。あなたに聞いて欲しいことがたくさんあり、それをあなたが聞いてくれるのだと分かったとき、堰を切って言葉が湧き出して来ます。自律的に口を噤むことなどできません。
灯。
ぼくはあなたが好きです。
ただこの一言さえ口に出さなければ、他のことは何でも話せる。この残酷な幸せに耐えられなくなるまで、ぼくはあなたとの会話を楽しみたいと思います。
抜粋3
灯。
あなたはしきりと『綺麗』を連発していました。水族館のアーチは確かに綺麗でした。全面ガラス張りの通路は、天井を魚が泳ぎ、どこか夜空を連想させます。
あの場では言いませんでしたが、実は、水族館があまり好きではありません。特に、深海に住む異形の生物を晒し者にする行為には反感を覚えます。
彼らには産まれながらにして光が与えられていません。厚い水の層が太陽光を遮って、彼らの住む世界はいつも闇の中です。彼らの異形は光のない世界を生きるために、適応を重ねた結果の最適な形姿であって、我々の美観で迂闊な判断を与えられる類のものではありません。彼らはそこに生きるよう「定められて」いるのですから、陸に住む猿の仲間が、幾ら手が長いからといって、釣り上げてはあげつらう行為は一種の傲慢であるように思われます。ぼくたちがすべきなのは、彼らの姿を厳粛に受け止め、敬意を払うことではないでしょうか。
この世界には、光なしに生きる生物が存在する。
それを救いと思えませんか?
もう一つだけ言わせて下さい。
水族館や動物園に行くと、なぜあなたはぬいぐるみを買うのですか? たしかにペンギンやイルカは可愛いし、猿にもライオンにも愛嬌があります。ですが、買ったものは自分の部屋に持ち帰るべきではないでしょうか。
あなたが帰った後、整然と(なぜかぼくの)枕元に並べられたぬいぐるみたちに見下ろされながら眠るのは結構大変です。
最近よく喰われる夢を見ます。ライオンや熊にならいいでしょう。しかし、昨日の夜など、ついにペンギンに食べられました。あまつさえ、ぼくを喰った後、やつは飛びました。
そもそもペンギンは肉食なのですか。
そもそもペンギンは飛べますか。
抜粋4
熱田や孝太郎(共に友人です)と一緒にファミリーレストランで食事をしました。彼らと話していると、自分の状態が如何に変わったか思い知らされます。あんなにも美味く感じた外食が(もちろんぼくが自炊すると惨憺たるものが出来上がるのは知っていると思います)、今はどうにも味気なく感じます。あなたの作った食事はきっと麻薬で、いつの間にか中毒になっていたのかも知れません。ほとんど毎日のことですから、あなたの負担になっていないかと危惧しているのですが、どうも断ることが出来ません。
ぼくはあなたの作った食事が好きです。しかし、なによりも好きなのは、湯気の向こうに浮かぶあなたの顔なのでしょう。無意識に浮き出ている笑顔というのは、とても綺麗なものですね。ぼくが絵を描けたら絵を描こうと思うでしょうし、写真家ならば、写真に残したいと思うでしょう。でも生憎、どちらの技術も持ち合わせていないので、「笑顔」などというつまらない言葉で終わらせなければならないのが残念でなりません。
熱田に、「当りが柔らかくなった」と言われました。自分では意識していないのですが、少し離れて見るとそう感じられるのでしょうか。
嫌な気分ではありませんが、内心忸怩たるものがあります。擬態は完璧だと自惚れていたのに、実は端から見れば作り物であることが一目瞭然だったのだ、と。ならば敬遠されていたのも当たり前かもしれません。自然でない人間はいつも鼻に付くし、胡散臭く思われてしまうのですから。
他に、よく話題に上がるのは、やはりあなたのことです。熱田は相変わらず苦虫を噛みつぶしたような顔をしています。でも、坂下がちゃかすので、仕方なく話に乗っては墓穴を掘り、を繰り返していました。
坂下のことをぼくは気に入っています。冷静で、距離を測るのが上手い男なのです。もしあなたが灯ではなくて、彼に相手がいなければ、あなたと彼を引き合わせたいとさえ思っています。もちろん、あなたが灯である以上、ぼくは絶対にそんなことはしませんが。
熱田について書くのは止めにします。彼女のことになると、あなたはすぐにむきになる。でも、そんなあなたを見ているととても嬉しくて、幸せな気分になります。(迷惑なことでしょうが)
この前の期末テストでは、現代国語の成績が上がりました。やはりこんな宛のない日記を書いているからかもしれません。実際に文章を自分で書いてみると、滑らかな文章を書くことの難しさがよく分かります。内容はいつも取り留めなく、段落ごとの繋がりが上手く行きません。いつかあなたがこれを読むことがあれば、読みづらさに眉をしかめた後で、その稚拙さを笑って下さい。
人間の思考は言葉で出来ているのだと、最近改めて実感しています。例えば一人称の「ぼく」は、最近実生活にも浸透してきていて、ときどき頭の中で「ぼく」を使っているのに気づくと驚きます。
「ぼくは〜」とあなたに語りかけるぼくはどうでしょう? たぶん、どこかの行儀の良い御曹司のようで気持ち悪いだろうと思います。やっぱりあなたに対しては「灯」と呼びたいのです。今はまだ呼べず、相変わらず「天嵩先輩」の日々ですが、頭の中ではずっと前から「灯」なので、ちょっとした弾みに地が出てしまうかも知れません。その時には、どうか嫌な顔をしないで下さい。
姉さん、とは、絶対に呼びません。
抜粋5
夏の暑さほど嫌なものはありません。呼吸するのも辛く、これを書く手も汗ばんで、ボールペンは滑るし、手に張り付いた紙もごわごわになっています。
だから、あなたがぼくの部屋にやってくる理由がいまいち分かりません。そして、どこから湧いてくるのか分からないあなたの元気にも感嘆を覚えます。
勝手なイメージですが、灯には冬が似合う気がしていました。たぶん今年の春、まだ寒い朝に天嵩の家の門前で出会った時の印象が強いのでしょう。
こんなことを当人に向かって書くのは恥ずかしいですのですが、あなたの薄着、あなたのしぐさを見ていると、いつも涼しさを感じます。肌がひんやりと冷たそうで、いつも触れてみたいと感じます。長い髪に胎んだ熱気さえも浴びてみたいと感じます。
でも、やっぱり一つだけ言いたいことがあります。水に浮いているぼくに悪戯をしないで下さい。背中を触られるだけでバランスを崩して溺れそうになってしまうのです。あなたの水着姿を見た代償が溺死では、少々対価が高すぎるような気がします。
あと、基本的にぼくは泳げません…。
抜粋6
文化祭についてですが、うちのクラスは露店をやるそうです。どうせ男子連中は調理にはほとんど加わらないので気楽なものですが、代わりに屋台作りを任されて、収支はとんとんといったところ。ぼくも放課後ずっとトンカチでベニヤ板を叩いているものだから、随分と工作技術が向上しました。犬小屋程度なら作れそうだと自惚れていますが、そもそも中に住まわせる犬が居ないのが問題です。
共同作業のお陰で、今まで話したことがなかったクラスメイトとも色々と話をするようになりました。赤根(これも坂下同様クラスメイトです)のお兄さんは、実は担任の水谷先生と付き合っているそうです。既に婚約しているのだとしらされたときにはとても驚きました。
兄といえば、例えばあなたが男だったらどうでしょう。仲良くなれたかどうかは分かりません。ただ、今よりも穏やかで落ち着いた生活が出来たと思います。やっかいな男女間のいざこざもなく、案外仲の良い兄弟だったかもしれません。
だけど、その代わり、今この瞬間にも感じられるこの素晴らしい感情もまた、なかったのです。
思えばあなたとぼくが、同じ女性から産まれたというのは、なんとも不思議なことに思われます。あなたと全く縁のない人生というのもあり得たのです。ぼくがブラジル辺りに産まれたとすれば、出会うことすらなかったのですから。同じ日本の、同じ地域に産まれたとしても、あなたがぼくに目を向けた可能性は低いでしょう。同じ高校に通っていたとしても、話しかけることさえなかったでしょう。
正直なところ、これを運命と呼びたいという願望もあります。陳腐な妄想ですが、何万年前から、二人が出会うことが定まっていたとしたら? その思いつきは甘美で、不気味な魅力があります。
ですが、現実には、ぼくとあなたが姉弟として産まれたのは偶然でしかありません。さいころを振ったらたまたま出てきた目でしかありません。
散々呪った運命を、偶然だと言って突っぱねてきたのに、幸せになったからといって、やっぱり運命だと信じるわけにはいきません。
これは偶然です。なんの意味もないし、なんの必然性もありません。ぼくが例えば――例えば熱田に――心を奪われる可能性もあったし、あなたが同じ三年生のクラスメイトを好きになることもあったでしょう。
ぼくたちの関係に運命を持ち込むのは止めにしましょう。今日あなたは不安になっていたのか、しきりに運命だといいました。ぼくは返事をしませんでした。
運命論を自分の行動の中に引き入れてしまったら、そこでお仕舞いです。何をしても変えられないからこそ、運命というのです。ぼくは、目の前で死んでいくあなた、手の中から流れ落ちてしまうあなたを、指をくわえて見ているくらいなら、何十回でも、何百回でも、サイコロをふり直すことを選びます。
例えばどんな高い壁にも途切れるところがあるものです。端にたどり着ければ、回り込むことができます。ぼくはあなたとぼくを隔てる最後の壁を越えたい。
乗り越えるのが無理ならば、どこまで回り道をしてもいい。迂回しようが穿とうが乗り越えようが、あなたにたどり着けることに変わりはないのですから。
抜粋7
今日熱田に告白されました。
その足で、図書館に向かいました。最近色々な本を読んでいます。
レヴィ・ストロースの『親族の基本構造』を読んでいます。内容が難しすぎてなかなか進みません。
抜粋8
遺伝。
道徳。
抜粋9
ぼくがあなたを愛するのは間違いでしょうか。
近親の恋愛は、ときどき人肉食や殺人と同一に扱われるような類の禁忌であるように思われます。
抜粋10
銀色というのは、意外と奥深いものです。そして、驚くほど安い。もっと高いものだと思っていました。指のサイズを知らないものだから、取りあえず一番小さな六号にしてみました。入らなければ取り替えてくれると店員の女性が言っていましたが、そうならないことを祈ります。なにかかっこ悪いですからね。
緩く湾曲したその指輪は綺麗でした。ぼくは宝飾品には全く不案内ですが、ごてごてと飾り付けたものよりも、シンプルなもののほうが美しいと感じます。なによりもあなたの小さな、細い指によく似合う。
プレゼント用の包装をしても、思いの外小さく収まってしまいました。ポケットに入れて包装の角を潰しては不味いと、わざわざ鞄の中に入れて持ち帰りました。
人に何かをあげるのは初めてです。だからぼくが今後生大事に腹の中で暖めている感情がどうして湧いてくるのか、理由は分かりません。
ただ、あなたが喜んでくれればいいと思います。それ以外はなにも望みません。
抜粋11
貰った万年筆の書き初めです。セットでついていたインクは、ブルーブラックというそうです。青みがかった黒。深みがあって、とても綺麗です。
軸の黒、キャップの銀に打たれた刻印、ペン先の豪奢な金の縁取り。もう一時間も眺めては書き、眺めては書き、を繰り返しているので、全然筆が進みません。
書くことも、もうないのです。
手の震えがまだ止まりません。
ぼくは正しい選択が出来たと思いますか?
灯。
ぼくはあなたを愛しています。
この言葉をあなたに伝えられないのが残念です。
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