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光について

第2部 第3回







 利き腕が使えないのはやはり不便だ。
 覆い被さってくる明を避けようと振った灯の手が、男の右手をしたたかに叩く。しかし痛痒はない。痛み止めの錠剤がその効力を十全に発揮していた。
 少女の首は細い。軽く捻れば枯れ枝のように折れて、一切の生命は活動を止めるだろう。だが、明の腕は太かった。体重を乗せると、椅子ごと灯を押し倒した。
 圧し掛かるだけでいい。彼の身体は女のそれをすっぽりと影の中に収めている。指を動かせる左手が、セーターの裾から腹の柔い処へ這い入った。彼は女の胸元から喉笛に、性急な熱を抑えきれずに口を付ける。
 
「や! やめ…」
 
 千切れた言葉を男の舌が埋める。もう会話は必要ない。明の眼底を白い火花が満たす。いい匂いだ。体臭なのか、香水なのか、石鹸なのか。鼻は高度の嗅ぎ分けができるほど発達していない。
 
「絶対切れないんだろ? 縁がさ。切れないんだよなっ!」
 
 唾液が飛ぶのも気にせず明は怒鳴りつけた。両の瞳はもう、擦りつけんばかりの距離にある。灯の瞳鏡に自分の瞳孔を映す。黒ではない。深い焦げ茶の細い筋が、同心円状に並んでいる。
 
――喰いきってやる。
 
 再び唇に吸い付いた。邪な舌が、女の閉じた歯の壁を這い回る。舌は第二の腕、第二の性器である。口の端から垂れた唾が顎を伝って床に落ちた。
 
「明! 明! 止めなさい!」
 
 息継ぎの瞬間、顔を捩り灯が叫んだ。怯え。嫌悪。恐怖。そこにあるのは合一ではない。美しく溶け合う交合などではあり得ない。彼女は見知らぬ男に喰われようとしている。まさに喰い殺されようとしている。
 灯の頬は動かない。顔面の筋肉が硬直する。そして体内の最奥から強烈な震えの波が肉を揺らす。カチカチ音がする。腕時計の針ではない。それは少女の奥歯が鳴らすタペット音だった。
 
「なんで震えてるんだよ! 姉なんだろ? 家族なんだろ? なんで怖がってるんだよ!」
 
 もどかしい右手が薄い女の肩を掴む。息の続く限り彼は絶叫する。もう囁き程度では届かない。明は無自覚に、何かを伝えることを望んでいた。自分を知って欲しいと望むのは、人間にとって、肉体の欲求に先立つ根元的な欲望である。
 
「なんて呼べばいい? 姉さんがいい? お姉ちゃんがいい? 姉貴がいいか? 灯? 灯さま? 選べよ」
 
 明の声は荒ぶる嵐のように小さな居間を蹂躙する。問いかけの形を取りながら問いかけではなく、弾劾の口吻かといえばそうでもない。奇妙な混交である。問いは両義性を持っていて、糾弾もまた二面性を持っている。
 事実、彼の言葉は二つの方向を内奥に孕んでいる。中空に浮かんだそれは、灯へ問いかけると同時に、明に問いかけていた。「おまえはなんと呼びたいのか」と。
 
 明の押さえつける力が緩んだ瞬間を狙って、灯は組み敷かれた身体を捩り、漸く配下の姿勢から抜け出した。
 震えが止まらない。酸素を吸入するためには、まず横隔膜を宥めなければならない。しかしもう、身体は言うことを聞いてくれそうになかった。
 強く目を閉じる。耳蓋を木霊する明の言葉も、今は全ておぞましい。木張りの床を這いながら、ただ逃れようと必死だった。彼女の心を占めているのはもはや親愛ではあり得ない。それは恐怖だ。
 何から逃げているのか。彼女は自覚していなかった。むしろ自覚を避けていったほうがいいかもしれない。
 
 彼女は弟から、そして一人の男から逃げていた。
 
 混乱が過ぎて思考は言葉にならない。音節が細切れに浮いているだけ。ただ自らの心音と、風切る吸気の音だけが聞こえる。耳の奥に血が集まって栓をしているからか、他の雑音はきれいに姿を消していた。
 
 刹那、腹から男の感触が消えた。
 
――明?
 
 毛布を剥がれた肌の寒気に似ている。目を閉じたままで彼女は身体を丸めている。凝固していた血流が再び流れを復し、手足の先に体温が戻っていくのを、じっと彼女は待っていた。
 
 自分は襲われたのだ。
 灯は漸く事の次第を理解した。自分は明に押し倒された。あの大きな身体が、あの汗ばんだ肌が、彼女を覆い尽くそうとしていた。
 これは何かの夢なのだ。或いは映画、或いは小説の一場面に過ぎない。現実感をどこかに置き忘れている。目を開ければ自室のベッドの上、汗をびっしょりかいているだろう。極めつけの悪夢。
 明は弟では「なかった」 歯茎をむき出しに、醜悪な表情を浮かべて襲い来る化物だった。だから彼女は自分の瞳を信じない。

 目を開ける。そう決めた。全てが幻覚なのだ。脳のやっかいな化学反応が見せた、汚らしい幻影なのだ。
 暗がりから明るい場所へ出た瞬間の目眩に似ている。酩酊を圧して気怠い身体を動かそうとしたその瞬間に、低い唸り声を聞く。

 鼻から吐き出される擦過音には高低がない。犬が喉を鳴らすようでもあり、羽虫の発する飛行音にも似ている。時折混じる嗚咽が、嘆きの河に刺さった標柱(jalon)となって灯を誘う。
 
 首だけ動かした先に、薄目に見える明からは、先ほどの悪鬼めいた空気が霧散していた。
 
 そこにいたのは薄汚れた一匹の鼠だった。
 俯いた頭部を膝の間に押し込めて、迫り来る恐怖から逃れようと必死になっている。離れたところからもはっきりと、顫動する肉体が見える。
 それは臆病者の鼠だった。
 
 彼女はそして、上半身を起こす。依然太陽は天頂に輝いていて、依然部屋は光に満ちていた。どうにもならない虚脱を持て余して窓の外を見れば、空の青は少し薄すぎる。
 少し薄すぎる。
 
――わたしたち…馬鹿みたい。
 
 全てが滑稽に見えた。
 回転する円筒の中をひたすら駆けるハムスターに似ている。少し愛嬌があって、少し滑稽で、少し憐れ。
 きっとあそこ、あの高い太陽の位置で見下ろすならば、彼らの悲劇は喜劇なのだ。駕籠に乗って登場する機械の神を見れば、どんなに深刻な愛憎劇も茶番に転化して、後には石ころ一つ残さない。
 締め切ったガラス戸を抜けて鳥の鳴き声が聞こえる。鳥の鳴き声を押しのけて、団地を巡回する物干し竿売りの拡声が響く。その拡声は鼠の啜り泣きに混じり、底の見えない壷にも似た部屋を満たした。
 
 
 数歩の距離に蹲る鼠をぼんやり見ていた。腹立ちもない。
 乱れたセーターの裾を直し、縺れた長い髪を背中に流すと、灯はゆっくりと立ち上がった。膝に力が入らないものだから、両腕で反動を付けなければならなかった。
 
――お腹空いた。さっき食べたばっかりなのに。これ以上食べたら太るかしら。
 
 胸中にそんなことを考える。目覚めてみれば、そこも白昼夢の世界だ。全身の筋肉が疲れ切って休息を求めていた。
 
「喉、渇いたわね」
 
 自分でも驚いたことに、不気味なくらいに平静を保った声だった。テーブルに残った烏龍茶を飲み干すと、喉を通り抜ける液体が火照った身体にゆっくり溶けていく。そしてそのまま椅子に身体を落とした。
 
 時間を感じることができない。
 だから、自分が泣いていることに気が付いたのは、すっかり涙が乾いた後だった。

 
 
 
◆◆

 
 
 

 姉が部屋を出ていく。玄関の扉が重い金属質の音を立てた。明は今だ居間のフローリングに蹲っていた。
 
 これで全てお仕舞い。
 今日一日は何もしない。
 そして明日になれば、彼は再び高江明として生きていかなければならない。
 
 右手が猛烈に痛い。水道の蛇口に付けたホースの中程を指で掴んで流れを止める。そして一瞬離せば、蓄積された水が勢いよく飛び出していく。機能を失していた神経が、再び動き始めた。
 
 自殺というのは、生物学的には不可思議な現象なのだと、いつか聞いたことがある。身体の全細胞が生を渇望する最中、脳に住処を持つほんの一握りの細胞片が、個体の終わりを決定する。複雑極まるニューロンの衝突がもたらしたその決定は、速やかに全身に通達される。彼、あるいは彼女は、銃把を握り、そっとこめかみに銃口を当てる。引き金を引く人差し指に、決定的な、致命的な力が伝達される。撃鉄に尻を強く叩かれて、弾丸がたまらず飛び出すと、人間の柔い皮膚を無視して脳に突き刺さるのだ。
 自死の是非以上に重要なことはこの世には存在しない。そこには一切のヒロイズムがない。最も単純に、自己の生きる世界を認めることが出来るか否か。根本的なところでは、昼食のメニューを洋食にするか和食にするか、選択するのとそう変わりなかった。
 
 では、自分はどうだろうか。狂おしい情動を識域下に無理矢理押し込めて、彼は自問する。認めることができるだろうか。自分が姉を力尽くで犯そうとするような世界を、である。
 包帯の向こうに存在した灯の腹は、あくまでも滑らかで柔らかい。唾液は混じり合って、今も明の口内に残っている。そして匂い。そして沈黙を切り拓く金切り声。恐怖に凍りつき、鋭角な叫び。紅潮した顔。丸い、大きな瞳。細い眉。
 
 明は両手で耳を覆う。縫いつけんばかりに瞼を閉じて、体中の筋肉を凝固させる。限界まで縮こまったその姿は大きな雪の玉に似ていた。誰かが一定方向に少し力をくわえれば、さしたる抵抗もなく転がり出すだろう。
 彼が全身に包み込んで護ろうとしていたのは、たった一つの熱源である。追い払おうとしても、しっかりと根を張ったそれは、小さな若葉のはずなのに頑強な抵抗を示した。ならば囲い込んで、閉じこめてしまおう。そう思った。
 
 もちろん、明はいろいろなものを諦めるべきだった。幸せな未来も、平穏な生活も、優しい隣人も、である。そして明にはそれらを諦めることができた。躊躇うことさえないだろう。路傍に拾った紙屑のように、ゴミ箱に放り投げることができる。
 
 だが、ただ一つだけ、諦めきれないものがある。事実彼は、十年以上も執着してきた。知覚できる意識の下で、常に噛み潰して、味の抜けたガムのようになっていた。
 最初嫉みとしてとして現れた感情は、やがて形を変える。
 泥の中にそれは生まれた。最初砂粒のごとき種子であり、やがて弱々しい芽を見せた。泥中の養分を吸い上げて成長する。茎は透けて葉は柔らかい。大地の嘔吐にも似た、ぬかるんだ地面から、それは美しく顔を出す。夜の闇の中でゆっくりと花弁を開く。 
 
 脳に与えられた指令に抗して、引き金を引く人差し指を止めるものは、だからその花の美しさだけ。全てを切り捨ててなお、残る物。前史より幾多の人間が、そのために死に、そのために生きてきた。
 人々は花に愛と名付けたが、あいにく彼は名前を知らなかった。彼が知っていたのはただ一つ、開いた花弁は美しすぎて、とても自分には諦めきれないということだ。









 下校時のショートホームルームが終わるやいなや、熱田静はとるものもとりあえず明の家へ急いだ。玄関のチャイムを連打するが、前のように戯れではない。切実な焦りがあった。自分はまだ、明に何もしていない。事態は想像以上に錯綜していて、どうも完全には追いきれないと気が付いた。ならば流れに積極的に関わって行くべきなのだ。傍観者であり続けることが出来ない以上、はじき飛ばされないように、腰まで水に浸かるしかない。
 内側からドアが開く。出てきた明の表情には、いつも制服のように張り付いた笑みが無かった。双眸はガラス玉のようにひんやりとして、白目の部分がやけに透き通っている。
 
「熱田…?」
 
 出会い頭にそう声を掛けられて、一瞬静は躊躇する。だが、後込みする心をひっぱたいて口を開く。
 
「この前の…謝りに来た」
 
 ぶっきらぼうな物言いになってしまう。
 
「ああ、あんまり気にすんな。おれも悪かったよ。いろいろ言い過ぎた。ごめんな」
「謝んないでよ。わたしが謝ってるんだから」
「そうか。ごめん」
 
 彼は相変わらず仏頂面で応えた。一瞬ひきつった口元は、笑みを浮かべようとしてしくじった名残なのだろう。
 
「よしっ! じゃあさ、仲直り出来たところで、どっか行かない? あんたとご飯食べたこととかなかったじゃん? そういうの…どう?」
「いいよ。何食う?」
「ううん。そもそも選択肢があんまないよね。田舎だし」
「和食? 洋食?」
「ていうか、ファミレスしかないよ。ドリバあるし」
「ドリバ?」
「ドリンクバー。あんた仙人かなんかか」
 
 静は付け焼き刃の神妙さをかなぐり捨てて、早々に普段の軽口を飛ばし始めた。
 
「なるほど。じゃあ、ちょっと待って。服着替えてくるわ」
 
 そう言い残して一旦部屋に引っ込んだ彼は、数分後、準備を整えて出てきた。スニーカーの踵を合わせながら歩き出すと、階段を先立って降りていく。
 
「そういえば、制服のままだけど、家帰ってないのか?」
「帰ってたらこの時間にここに居ないでしょうが。それよりほら、なんか言うことあるでしょ?」
 
 団地の外へ続く遊歩道で、明と並んで歩く静が自分の頭を軽く振ってみせる。彼は横目にちらりと見て、彼女の言いたいことを直ぐに察した。
 
「ああ、髪の色」
「そう。可愛くない?」
「いいね。おれはよくわかんないけど、なんかお淑やか系だよね」
 
 でしょう? そう声に出さんばかりに頷く女の姿に視線を向けて、彼はそれっきり黙り込んだ。髪の色を戻しただけだというのに、隣を歩く少女は別人だった。騒がしいのは同じだが、今までの軽い雰囲気はない。見かけを変えただけでこうも変わるものなのかと、強い驚きを感じる。
 
「高江こういうの好きでしょ? お嬢様系? わたしも結構イイ感じっぽくない?」
「お嬢様系? そうかな」
「わかんないけど。なんとなく。ほら、フリフリのワンピとか」
 
 自分の冗談に自分で笑う。何がおかしいのか分からず呆然としている明に、静は早口で説明し始めた。
 
「だから、ワンピース。白とかさ。この制服もほら、セーラー服じゃん。どうよこういうの?」
 
 何がうれしいのか分からないが、静はきっとはしゃいでいるのだろう。彼の歩く数歩先で鞄を抱えながらくるりと回ってみせるその姿は、明らかに普段の挙動ではない。
 
「熱田はその前に言葉遣いとか直すべきなんじゃないか。お嬢様は『じゃん?』とかいわねえ」
「うっさい。そこはほら、気さくなお嬢様って設定なんだから。察しろ」
「はい」
 
 大通りの脇に作られた歩道を歩いていく。夕暮れの空は赤い絵の具をぶちまけて、飛び散った赤が木々を汚す。
 右手が恐ろしく痛かった。鎮痛剤はもう飲んでいない。痛みは常に感じておくべきで、薬でごまかしてよいものではない。そう思った。
 なま暖かい風を受けて、静の制服が翻る。彼と対面しているせいか、後ろ向きに歩き続ける彼女は、時折すれ違う自転車と危うく衝突しそうになっては前に向き直る。そして少しすると、また彼の方を向く。そんな奇妙な行動を飽きもせずに繰り返していた。
 
「でもさ、高江はサボれてラッキーだよね。もうすぐ体育祭じゃん。だるー」
「確かに。でも、やればやったでおもしろいと思うぞ」
「あんたすっかり他人事ね。まぁその手じゃ見学決定だけどさ。マジ羨ましいんだけど」
「いや、おれも出たかったんだけど。別にサボるためにやったわけじゃないし」
 
 静にはもう、怪我の原因に予想がついていた。予想通りであれば、今この瞬間の話題にふさわしいとは思われない。何を好んであの口うるさい女を思い出させる必要があるだろう。
 
「わたし結構足早いよ? こう見えても。だるいけど、きっとリレーあたりやらされるんだろうなぁ」
「へぇ。知らなかったわ」
「中学時代は陸上部だったし。高江は?」
「部活?」
「うん」
「何やってたっけ。なんかすごい昔のことに感じる」
「なにそのスルーは。なに隠してんのよぅ」
 
 戯れに女が腕を叩く。振動が右手まで伝達されて、彼は一瞬顔を顰めた。
 
「あ…ごめん」
「いや。大したことない。そう、テニス部だった。でも、ほとんど活動してないから、相変わらずめちゃくちゃ下手だよ」
「テニス! あー、なんとなく分かる。テニスのプロとかって、みんな背が高いもんね。サーブとか打つんでしょ?」
「そりゃ打つよ。打たなきゃ始まらないし」
 
 再び静は笑った。
 
「今度教えてよ。テニスしよう」
「無理」
「なんで?」
「おれ自身下手だし。もう少しまったりした遊び提案しろよ」
「どんなの? カラオケとかだるくない?」
「合コンはどうしたんだよ」
 
 前に静が騒ぎ回っていたのを思い出して話を振ると、彼女は大げさに両手を振り回しながら叫んだ。
 
「あれは冗談じゃん! 合コンとか興味ないし。察しろ」
「はい」
 
 彼女にしてみれば、校内合コンだのなんだのと盛り上がっていた過去の自分は、タイムマシンがあれば迷わず殺しに行きたいほどに決まり悪い過去だった。しかも、心中憎からず思っている男にそれを指摘されるなど切腹ものだ。
 
「で、カラオケとかどうなのよ?」
「あんまり行かない。そもそも歌える歌がないし」
「マジで? 音楽とか聴かないの?」
「聴かないっつーか。父さんが持ってた洋楽とかしかない」
「洋楽とかかっこいいじゃん。今度聴かせてよ」
「やだ」
「なんでよ」
「カラオケで洋楽ってイタイだろ。みんな引くでしょ」
「そんなことないって。坂下とかもうナル入りまくりで熱唱してるよ?」
「まじか」
 
 それは少し見てみたい。友人の歌う姿を想像して明は小さく笑った。
 
 
 二人は連れだって郊外型のファミリーレストランに入った。入り口でウェイトレスが告げる決まり文句を素っ気なくかいくぐって、静はお気に入りの窓際に陣取ると、彼を手招きする。
 向かい合って落ち着くと、メニューを開いた。
 
「なににする?」
「なんか適当に。あんまり腹減ってないし」
 
 言ってメニューの二ページ目を開いたとき、ナポリタンスパゲティが目に飛び込んできた。相変わらず血の色をしてじっと佇んでいる。
 
「なに? スパゲティ食べるの? わたしもそれにしようかな…」
「おれは決めたぞ」
「うーん。じゃあわたしも」
 
 呼び鈴を押して店員を呼び寄せる。しばらくすると、盆に水の入ったグラスを二つ乗せて、若い女のウェイトレスが現れた。
 
 酷く皮肉な成り行きだ。昼間灯と食べたそれを、夕方静と食べる。普段なんとも思わないシンボルの一致が、今の彼にはしかるべき重要性を持っているように思われたのだ。
 テーブルに置かれたコップに早速口を付けて喉を潤すと、彼は静かに注文を伝えた。
 
 
「ナポリタンとドリンクバー、一つ」

 
 
 
◆◆

 
 
 

 静と別れた後、夜道を一人歩く。大通りには帰宅を急ぐ車が列をなして、色とりどりのヘッドライトで辺りを照らす。それは川のように蛇行して、行く先を目視できない。
 尻ポケットの中で何かが震えるのを感じて、彼は左手でそれを引っぱり出した。どうやら携帯電話の着信があったらしい。
 微かに期待していた。メールアイコンをクリックして中を開く。しかしそれは少年の期待したものではなかった。
 
「また今度遊び行こうね! 今日はマジで楽しかった」
 
 差出人の名前を確認すると、彼は二度首を振って蓋を閉じた。
 
――また今度。
 
 しかし今度は来ない。静が望んでいることがなんなのか、朧気に想像は付く。だが。淡々と足を動かしながら彼は考えた。もし彼女に全部話したら? 
 あのナポリタンを食べた後、ちょっと出来心で姉を襲ったのだ、と。無力にあがく女にのし掛かったのだ、と。でも、もう心配ない。灯は二度と自分に近づいて来ないのだから。
 
――だから、また今度遊ぼう。
 
 そう言ってみたらどうだろうか。自分は姉に偏執的な執着を持っている。そう話してしまったらどうだろう。静はどんな顔をするだろう。罵るだろうか。それとも泣くだろうか。それとも、軽蔑の一瞥を残して席を立つだろうか。たぶんその全てをするだろう。
 
 
 夜が怖い。
 小道の脇に屹立する電灯も、足下から絡みつく寒気を打ち消してはくれない。道の奥に浮かぶのは女の表情だ。恐怖で氷漬けにされた顔面をこちらに向けている。数刻前、彼の網膜に焼き付いた灯の顔がどこまでも彼に追いすがる。
 それは化け物を見る目だった。毛むくじゃらの、汚らわしい獣。あるいは、顔面に飛び込んできたゴキブリを怖れる目だ。ホラー映画でおなじみの、泣き叫ぶ女。
 スニーカーが地面の砂利を擦る音を聞く。道の中央にある大きな公園を抜けて、彼は家路を急ぐ。冬の間稼働を止めていた噴水が再び吹き出し始めたのは、もう一週間も前のこと。側を通ると水しぶきが彼の髪を濡らした。シャツの裾から巻き込まれた風は、夕方の熱気をすっかり冷ましている。
 
 突然訪れた吐き気を堪えきれずに、道ばたの舗装されていない地面に吐いた。胃の内容物を全て、陣痛に似た痛みとともに産み落とした。喉の壁面を焼く胃液。酸味の強い臭気。目尻に浮かんだ涙。極めつけ、罪の右手が中から弾けそうなほどに熱を持って膨張していた。
 よろめいた足を押して、明は公園備え付けのベンチにたどり着く。夜露に湿る表面を無視して手足を伸ばし、横たわる。
 
 瞬間視界が開けた。
 信じられない速度で周囲の世界を塗り替えて行く。
 永遠に弾け飛ぶ火花のような星の瞬きも、いつの間にか深黒に飲み込まれていく。そして、同時にまた新しい光が産声を上げる。
 月はない。
 弱々しい線香花火絵巻のなかに月の明かりは少し大げさすぎる。雲のない日には暴虐を極める重い月光を遮る術がない。だからこの日、月のない夜は思いがけない僥倖であった。
 
 それを美しいと思う。
 両手をだらりと垂らして身を任せる。
 途端に闇の触手が身体を掴み、ゆっくりと空に引き上げていく。
 喉笛に絡みついた優しい触手が一本。息を止めると、胸骨の途切れたところで心臓が鼓動を早めていた。
 
「うっ…ぐっ…」
 
 今日は本当によく泣く日だ。
 噛み殺した嗚咽につられて、鼻水が鼻孔を満たしていく。
 涙には抵抗がない。精液のような密度がない。
 
 
 そして彼は思い出す。
 さざ波の飛沫に映る古い記憶が霧になって、真っ暗な空から辺り一面に降り注いだ。
 
 昔から夜が嫌いだった。
 始めて自室を割り当てられた日、一人で眠ることが出来なかった。彼はお気に入りのアニメキャラクタがプリントされたパジャマを着て、彼を癒やしてくれる唯一の存在が息づく部屋へと向かった。姉は小さな弟をベッドの上に招いた。暖かい身体だった。入学したての小学校で学級委員に選ばれた彼女は少し得意げだった。自分は人の面倒を見る立場なのだと、幼いながらもそれを誇っていた。
 友達を作るのが苦手だった自分をいつも見守っていたのは彼女だ。父にねだって買い与えられたプラモデルを作ろうとして、結局果たせなかった。手伝おうと申し出た彼女を頑なに拒んで、結局あのプラモデルは完成しなかった。
 
 人体は一つの宇宙である。男の脳内を今、膨大な量の記憶が満たす。溢れて地に落ち、つかの間に消えても、尽きることなく湧き出してくる。
 
 些細な喧嘩も、年上ぶった小言も。お気に入りのエビフライをしぶしぶ分けてくれた時の、悔しさの中に微量の満足が入り交じった表情も。
 聞き分けなく泣き叫んだ別れも、よく覚えている。彼はやはり灯の首筋にすがりついていた。泣いてはいけない。泣くことは敗北である。だが、幼い明は泣いていた。
 
 そして、覚えている。
 自分の小さな身体に隠れて、腹に手を回す少女の姿を。
 不規則な誰何。玄関を叩く拳が発する鈍い音をおそれる灯を、背中の皮膚が覚えていた。
 
 幼時の記憶に意味などない。
 遊び飽きて、やがてどこかへ無くしてしまったおもちゃのように、青年期の体験が幅を利かせ始めると急速に薄らいでいく。彼のそれも同様に、擦り切れ、ぼやけて、確認できるのは輪郭だけだった。
 灯は写真を撮るのが好きだと言った。何気ない瞬間を撮って、それを誰かに見せるのだ、と。彼女は悔いていたのかもしれない。彼女の宝箱を無造作に捨て去っていた弟と再び出会ったとき、ひどく辛い思いをしたに違いない。
 明は写真が嫌いだ。例えば今、公園の片隅で無様に泣いている自分を撮ったところで、何が残るだろう。薄汚れた化け物が残るだけだ。
 
 ならば。
 
――なにか書こう。
 
 今この瞬間を紙に残す。
 素晴らしい思いつきだった。書き連ねた場面の束は、しかるべき時に灯に読まれるだろう。彼女の心の中に残るだろう。醜悪な生き物だった自分の、書き残すに値する内面を、姉はきっと忘れないだろう。まだ宝箱があるのならば、その中にしまっておいて欲しい。
 
「おれは…なんて呼んでたっけ…」
 
 宛名になんと書けばいいだろう。
 姉さんか? お姉ちゃんか? 姉貴か? それとも、灯? 灯さま?
 
 確たる理由はなかったが、彼には重要なことだった。
 もう一度姉に聞きたい。自分はあなたをなんと呼んでいましたか? そう尋ねたい。
 叶わない夢想であることは分かっている。だから自力で思い出す必要がある。なんとしても思い出す必要がある。そして堂々と、封筒の表に書き記す必要があるのだ。一字でも間違えば、彼女のもとに決して届かない。
 
 灯。
 アカリ。
 あかり。
 
 綺麗な名前だ。
 彼女は自分を包み込もうとしていた。そして照らし、温めようとしていた。
 彼は愛していた。姉の名前を愛していた。
 いや、姉ではない。
 姉などという、ちっぽけな関係性の檻に閉じこめられる前から、彼女は手の届くところにいつも居て、いつも自分に語りかけていた。
 
 自分にとって、灯とはなんだろう。
 幼い日、人付き合いの下手な自分にとって、彼女は全てだった。自分を好いてくれる――この口べたで、愛想のない子供を――唯一の人だった。
 分かたれてから、彼女は嫉みの対象だった。子供時代と変わらず、美しく、なんでも持っている彼女を妬み、呪うことで、なんとか精神の平衡を保ってきた。
 
 では今。自分にとって、灯とはなんだろう。
 今、自分にとって、彼女は姉ではない。無条件の好感情を引き出せる管理の緩い銀行でもないし、汚らわしい欲望のはけ口たるグラビア雑誌の一ページでもない。
 
 彼女は他人だ。
 
 自分と同様に一個の意志を持ち、好悪を秘め、身勝手なところも持っている。熱田静と同様、決して分かり合うことが出来ない、一個の独立した存在である。
 
 
 だから、愛してる。
 
 
 灯。
 宛名にはそう書こうと決めた。
 彼女は確かに彼が求める明かりである。
 それはぬるま湯のように心地よい光ではない。
 それは灼熱の、皮膚を焼き尽くす異常な熱なのだ。
 
 
――光について。
 
 
 手紙にタイトルをつけるのは滑稽だろうか。
 しかし、灯に、光について書く。
 これほど因果めいて、かつ真摯な行動はあろうか。
 
 灯。
 綺麗な名前だ。
 
 
 
 天嵩灯 宛
 光について







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