黒髪に戻したのは何年ぶりだろう。短い間隔で美容院に通い、いつもライトブラウンに保ってきた彼女が思い切って染め戻したのにはさしたるわけはなかった。気心の知れた美容師との会話の中でも、理由を答えることが出来ない。なぜなら彼女にも分からないのだ。ただ思い立っただけ。
明とその姉と言い争いをしてからもう三日立つ。熱田静はしかし、不思議と晴れやかな心で思い出した。明と天嵩灯は姉弟だという。なるほど、それならば親密なのも当たり前だろう。ひどい言葉を言われたというのに、却って彼女には灯が気の毒にさえ思われた。 明には漏れなくあの過保護な、年上ぶった女が付いてくるのかと思うとうんざりするのだが、負の感情は直ぐにもっと大きな幸福感に取って代わった。
これが恋の始まり。
雲一つ無く晴れた通学路の空を見上げて、彼女は新しい感情の手触りを楽しんでいた。
綺麗な空だ。
頭のてっぺんからつま先まで、一部の隙もなく装っている。スカートの裾を少し長くさえした。黒い髪はもうすぐ伸びて、綺麗なワンレングスになるだろう。
朝鏡を見た彼女は、こんな見慣れぬ自分の顔もそう捨てた物じゃないと密かな満足を覚える。いかに美しかろうが、いかに人気があろうが、天嵩灯は姉である。こうして装いを新たにしてみれば、自分とて灯とそう大差はないだろう。満面の笑みは、確かに以前のくすみを欠片も残していなかった。
遅刻寸前の時間帯ではあるが、あえて彼女はゆっくりと歩いた。教師の小言などどうということもない。バス停から校門まで、萌え出した木々の名前も知らない。だが、いつもならば鬱陶しいだけの生臭い空気も、濡れ葉の輝きに掻き消されていた。
明はここ数日学校に来ていない。だが、彼女は既に彼の家を知っているのだ。今日来れば学校で、来なければ家で、どちらにしても今日謝るんだ。美容院で髪を染め直す合間に固まった決心がある。彼の性格からいって、長く怒りを引きずることもないだろう。謝れば常態を回復することが出来る。ならばそこから…。
今までの鬱屈を晴らすように、少女の心は大きく動いていく。
「静遅いよ。すごい。大変なことになってるんだって!」
教室のドアを開けた瞬間、いつものように赤根と話していた紗綾が彼女目がけて飛び込んできた。
「なに? なんかあったん?」
「あった。なんかね、高江くんがトイレで暴れたらしくって! 今先生に連れて行かれて…ね! 統介くん?」
自分の証言を確かめるために、置き去りにされていた赤根に話を振る。唐突な紗綾の言葉に驚いた風もなく、彼は小さく頷いた。
「ギイチが連れて行ったよ。高江ってキレるとすごい怖いわ。三人がかりで抑えてたし…」
「うそ?!」
「マジ」
「坂下は? あいつどうしたの?」
「ギイチと一緒に行ったみたい」
赤根の方がより事情に詳しいと踏んだ静は、息付く暇もなく質問を投げかける。
「理由は?」
「わかんない。別に他のやつ殴ってたわけじゃないみたいだから、喧嘩じゃないと思うけど」
そのときの情景を思い出しているのか、やや青ざめた顔で統介が答えた。
「はぁ? わけわかんないじゃん! 誰に聞けばいい?」
「孝ちゃんが一番いいんじゃないかな。帰ってきたら…」
静は統介の言葉が終わらぬうちに、鞄を持ったまま教室を出た。彼女を突き動かしたのは得体の知れない焦燥感だった。脳内に思い描いていた未来図、前提のカードを一枚ひっくり返されれば全てがめちゃくちゃになってしまう。
嫌な予感。聞かれればそう答えるしかない。
先ほど上ってきたばかりの階段を、スカートが翻るのも気にせず駆け下りて、一階突き当たりの職員室を目指す。視界の脇を風に引かれた髪が泳いでいた。
「坂下っ!!」
職員室から出てきた小柄なクラスメイトの姿を発見して、静は大きな声で呼び止める。
「おまえ、来るの遅いんだよ!」
返ってきたのはぶっきらぼうな言葉。しかし、揶揄する色はない。完全に真顔の孝太郎を見ていると、事態はいよいよ深刻なのかもしれない。跳ね上がる心臓を抑えて、彼女はしゃべり始めた。
「なに? なにがあったん? 高江大丈夫なん?」
「取りあえず落ち着いた。病院行ったよ」
「病院ってなに? どういうことなん?」
「おれと話してたらいきなり気持ち悪くなったらしくて、トイレ行ったんだよ、あいつ。その後…暴れたらしい。理由はわからん」
「はぁ? どこのトイレよ!」
「二階の男子トイレ」
今度も孝太郎の言葉を聞いた途端、やってきた方向に再び走り出す。しかたなしに彼もその後を追った。
「おい! どうすんだよ?」
「うっさい。見に行くに決まってるでしょうが」
「…男子トイレだぞ?」
息切れを抑えつつ彼が注意を喚起したときには、既に静は事件現場に突入していた。
用を足し終わって手洗い場で話していた数人の男子生徒が呆然と見守るなか、二人はほとんどもつれ合うようにしてスペース中央に躍り出る。
壁に立てかけられていたのは、蝶番が壊れた個室の扉。
「これ?」
「…それ」
彼女は両手で扉の端を持つと、全身の力を込めて持ち上げて裏面にひっくり返した。
「……これ…高江?」
坂下は答えなかった。白い化粧板に同心円上に飛び散った血痕。その中心は予想外の強い力を受けてへこんでいた。
「なにがあったのよ!」
「だから知らねえっていってんだろうが!」
何度も彼をなじる静の興奮が伝染したように、今度は坂下が怒声をあげた。
静は口を噤み、血しぶきの後を指で追う。かなり大量の血が出ている。滑り落ちた血痕が筋を作って下方に流れていた。
高江明は穏やかな男だ。入学以来怒ったところなど見たこともない。いつも微笑を浮かべていて、どんなことをしても、言っても、その表情にはさざ波すら見せない。その明がこれをやったのだ。静の背筋が熱を失って凍る。よく言う「キレる」とはまさにこのような状態を言うのだろう。そう思う。
何が彼をこんな行動に駆り立てたのか。後頭部から、何度止めても復活する目覚ましよろしく、派手な警告音がこだましていた。
「これか…」
同じようにドアの表面を眺めていた孝太郎が小さく声を出した。彼に示された一点に、静も走査の視線を合わせる。
化粧版の白いコーティングには罅が入っていた。陥没した一点。湾曲した表面には文字らしきものが書かれている。
灯 SE したい!
「これ…だろうなぁ」
文字を読みとった孝太郎の声はひどい疲れを滲ませている。過剰反応といえばそうかもしれない。男子のこういう卑猥な冗談は、日常茶飯事とは言わないまでも、よくある事である。幾ら身内へのそれとはいえ、苦笑しながら、あるいは仏頂面で落書きを消すくらいのはずなのだ。だから、今回の明の行動には、明にしか分からない事情があるのだろう。青天の霹靂とはこのこと。しかし、むやみやたらに口を突っ込むべきでないと彼にはよく分かっていた。
――だから言ったじゃん。ああいうタイプは怒ると怖いって。
誰に対するでもなく、彼は心中に呟いた。
傍らでまさに顔面蒼白、唇を噛みしめている熱田を促してトイレの外に出すのは、やはり自分の役目なのだ。つくづく損な性格をしている。自嘲混じりに肩をすくめて、静の腕を軽く叩いた。
「ほら、もう原因分かっただろ。おまえが居ると他の男子が入ってこられないから」
心をさらけ出せる相手。全てを共有できる相手。溶け合って不可分の一になり、長い人生を共に歩む。
そんな夢を見る。身を焼く感情が絡まり合って、ゴルディアスの糸塊を前に解く切っ掛けすら掴めない。そんな関係を望んでいた。
酷い暴言を浴びせられたはずなのに、灯はそう落ち込んでいるようには見えなかった。弟が癇癪任せに放り捨てた携帯電話を友人とおぼしき男子生徒に託すと、自分のクラスに戻り、淡々と授業を受けた。
弟の言葉は完全な拒絶だったが、それを口に出して言われたという、その一事が、或いは彼女を幸せにしていたのかも知れない。仮面の下にある本心を打ち明ける明は、一歩自分と距離を縮めたのだ。そう思っていた。
浮ついた気持ちは冷えた。噴火を終えて凝固する火山口のように静かに閉じた。だが、地中奥深く、いまだに溶岩は煮えたぎっていた。
夕方家に帰り着いてみれば母親はいなかった。祖父に尋ねると、仏頂面で「出掛けた」と応えた。「どこに?」そう尋ねることはなかった。ここ数ヶ月よくあることだった。理由にも大凡の見当はついている。しかし、灯が口を出すことではなかった。母親とて人間だ。夫と別れてかなり経つ。娘に自分の行動をとやかく言われる謂われもないだろう。
無言で部屋に帰り着く。広さ十畳ほどの洋室。壁際に置かれたベッド。窓にはベランダがないが、大きく取られているため外の景色がよく見える。庭の木に停まった雀が夕方の人気なさを嫌って飛び立つのを、彼女は飽きることなく眺めていた。
門の前に車が止まる音で灯は我に返った。時計を見ると、もう四時間以上経っている。ヒールの踵を石畳に合わせて門をくぐる母親の姿を、彼女は無言で見下ろしていた。
祖父の言葉をふいに思い出す。
――おまえたちは、嫌なことがあるとすぐに部屋に籠もる。
ならば自分も由緒正しいこの方法で心を癒やそう。そう決めて、灯は自室の鍵を下ろした。
照明を落としているからか、夜の闇はいつもよりも濃い。自分の姿形を避けて、黒いジェル状のなにかが充満している。やっと効きだした夜目をあっさりと放り捨てて、灯は目を閉じた。
そして弟のことを考える。
肉親と距離を取るのは大層難しい。しっくりくる間隔がつかめずに、いつも近すぎる。もしくは遠すぎる。大きなベッドに横たわり、ぼんやりと思い返す。彼が激発した瞬間、その顔は醜く歪んでいた。彼女はその類の顔を普段からよく見ている。
階下から聞こえてきた怒声はたぶん祖父と母親のものなのだろう。甲高い女声だけが目立つ。自室に籠もってしまえば、薄いドア一枚隔てただけなのになぜか心が安らぐのだ。何が起ころうとも、別世界の出来事のように思える。彼女は物騒な子守歌を背景に、眠りについた。意識して目を閉じることはできるが、耳を閉じることは出来ない。
ただ眠りだけが音を消してくれる。
これが第一の夜である。
灯は三日間自室に引きこもって過ごした。食事や風呂の時だけ部屋から出てくる。それは天嵩家伝統の拗ね方であったために、家族は心配さえしていないようだった。
相変わらず階下では小さな衝突が頻繁に続いている。遠くアフリカの内戦をお茶の間のテレビで眺めている。そんな気分。
有り余る暇を持て余して、部屋にあった本を読み散らしていた。中学生の頃、祖父に何かのプレゼントで貰ったヴェルレーヌの詩集。貰ったときに一度目を通したきり本棚に飾り立てたままだったそれを久しぶりに引っぱり出す。
優雅な生活。
これでは正に王女ではないか。何もすることがなく、何もできない。レースで装う。紅茶を飲み、日がな一日ベッドで寝間着のまま。
『秋の日の ヴィヨロンの ためいきの …』
ヴィヨロンのためいきがどうあれ、彼女は無力だった。ただ眠り、食い、また眠る。
「こんなんじゃ太っちゃうわね」
あえて声に出してみる。母や叔母がなぜこの引きこもりから抜け出せたのか、三日も経つとさすがに分かる。この部屋は「退屈」の一事を除けばとても快適だ。だが、どんな苦しみにも耐えられる人間とて、退屈にだけは耐えられない。
そうして時間を潰していると、下界から誰かが上がってきた。足音が聞こえる。甘美な幽閉の中で、聴覚だけがやけに鋭くなっていた。程なくして部屋のドアがノックされる。規則的な二連打。灯はベッドサイドの目覚まし時計に目を向けた。夜も九時を回っている。
「だれ?」
「お姉ちゃんだけど、灯、開けて」
倖は灯と対するとき、姉と自分を呼ぶ。叔母というには年齢が近すぎるし、精神的にも擬似的な姉妹と言えた二人にとって、それは自然な成り行きだった。
「倖さん? はい」
ベッドを降りてぱたぱたと自室の扉へ向かう。古めかしい錠前を外すと、扉は向こう側からゆっくり開いた。
「今いいでしょ?」
「はい」
倖は仕事帰りなのだろう、外出着のスーツを着替えてすらいない。帰ってすぐに灯の部屋へ直行したのだ。
「そろそろ飽きてきたころでしょ」
「ええ。ちょっと辛くなってきました」
「灯はまだまだね。わたしなんか最長一週間籠もったことあるわよ?」
「無理です。そんなに長く」
軽口を叩きながら倖はベッドに腰掛けた。照明は落としたまま。付ける気はないらしい。
「いろいろあったみたいね」
「知っているんですか?」
「学校から電話があったわ」
「えっ?」
明やその同級生とのいざこざは喧嘩ですらない。いちいち教師が電話を掛けてくるような出来事ではないはずだ。
「明くんのことよ」
「…明の?」
不吉な想像の種が一斉に花を付ける。一体何があったのか。
「暴れたらしいわ。それで怪我したみたい」
「うそ!?」
「本当よ。右手の骨折」
「喧嘩ですか?」
「いいえ」
明が暴れる? 想像はできる。自分に対した時のように激情のままに行動すれば、あるいはそうなるかもしれない。
だが、なぜ?
灯には弟の心中を想像する手がかりすらない。なぜ自分を拒むのか。なぜ怒るのか。
最初は普通の少年だと思っていた。温厚で心優しい少年だと思いこんでいた。何度か言葉を交わすうちに、それが擬態であることも理解できた。決定的だったのは、あの昼休みの出来事。反論の隙を与えず一方的に怒鳴り散らす明の姿に、彼が「なにか」を堪えていることだけは分かった。
だが、なにを?
灯には分からない。自分は弟のことを全て分かっていたはずだ。好きな色も嫌いな食べ物も、お気に入りのアニメも、好きなプラモデルも。小学一年生の明はわかりやすかった。そう、灯は彼の全てを知っていた「はず」だったのだ。
「さっき会ってきたわ。今は落ち着いているみたい」
「なんで? なにが原因だったんですか?」
「知りたい?」
「当たり前ですっ!」
「なぜ?」
「なぜって……明はわたしの弟です。知りたいのは当たり前でしょう?」
「そう」
倖の顔は闇に溶け込んで見えない。擬制の姉は大きく息を吐いた。対称的に灯は息を殺して倖の言葉を待つ。
「トイレに落書きが書かれてたんだって。その落書きに明くんは腹を立てたみたい。手の骨折っていうのも、トイレの壁を殴ってのことらしいわ」
「落書き…ですか? でも、そんなことで?」
意図した訳ではないが、倖のしゃべり方に、とんでもない事実を明らかにされると身構えていた灯には、真相は随分とあっけない。彼女は今だ事態が理解できずに黙り込んでいた。
「あなたの名前が書かれてたみたいよ。なんていうのかな、その…エッチな」
時折小耳に挟む男子たちの会話のおかげで、自分が「その類の」くだらない話に出てくることがあるのは知っていた。生理的な嫌悪感はある。だが、それを防ぐ術はなかった。だから「なかったこと」にしてしまうことで割り切るしかない。一八年も女をやっていれば自然と身に付く、それは至極当たり前の防御策である。
「わたしの?」
しかし口調には苦い色が混じっていた。無意識に寝間着の胸元をたぐりあわせる。
「そう。それを見た明くんがね。すごく怒ったみたい。落書きなんかよくある事よ。わたしも学生時代はそういうのやられたことがあるし」
倖は灯の沈黙の意味を想像して慰めに掛かる。だが、灯にしてみれば、落書きだのうわさ話だのどうでもよくなっていた。
自分が誹謗され、明がそれについて怒った。
事実はシンプルに還元される。
――明が怒ってくれた。
それは事実、幸福を呼び込む魔法の言葉である。少女の脳裏にしっかりと根を張った空想の木は、今や満開の花を咲かせている。
明は自分を嫌ってはいない。彼は姉を想い、姉のために怒ってくれる男なのだ。矢に狙われれば盾となり、口撃の対象となれば反駁してくれる。あの大きな手で。あの大きな肢体で。
ベッドの上で、膝を強く胸元に引きつけた。湧き出したこの感情がどこかに行ってしまいそうだった。心音が身体中を震わせる。
「ちょっ…灯? 泣かないで」
上下する肩と鼻水をすすり上げる音で、倖は灯が泣いていることに気が付いた。近づいて背中をさすれば、小さな頭が上下に動いた。
あの日、明の身体は小さかった。まだ筋肉もついていない。背も彼女より低かった。しかし彼女は弟の背中に隠れていた。玄関の扉を誰かが叩く音がする。明は――弟は――薄暗い玄関の先を睨んだまま動こうとしない。少年の腹に回した彼女の腕が、彼の体温を教えてくれた。
強烈なフラッシュバックだ。後頭部で何かが爆発する。灯の瞳はもはや何も映してはいない。生き別れる前の最後の瞬間。歳月を経るうちに抜け落ちてゆく記憶の中に、ひときわ美しく光り輝くその光景に彼女は全身で浸かった。
明に会いたい。
会いたい。
会ってその愛おしい拳を胸の中に納め、思う存分泣きたかった。
昼休みの拒絶がもたらした悪夢。三日三晩見続けた悪夢。識域の底で蠢く粘着質の化け物を恐れ続けてきた。指の間からこぼれ落ちていく砂を必死で止めようとしていた。
「他人」
少年の口から放たれた化け物の胞子は、女の肺に、胃に、脳に巣くう。そう、彼女と明は他人である。
だが、他人でありながら、二人は決して切れない糸に絡め取られていて、抜けだそうと望んでも絶対に抜け出すことが出来ないのだ。
だから彼女は幸せだった。
利き手が使えないのは案外に面倒だ。まず自転車のハンドルが握れないのだから、配達は休まざるを得なかった。普段の模範的な勤務態度のお陰でクビになることはなかったが、ある程度状態がよくなるまでは無収入が決定してしまった。
いつも配達に出る午前四時に目が覚めたが、今日は行く必要がないことを思い出してもう一度布団に潜った。
次に目覚めたとき、時刻は十時を回っていた。彼は掛け布団を跳ね上げて立ち上がると、カーテンを開く。途端に膨大な光の固まりがガラスを通して飛び込んでくる。
「布団でも干すか」
暴れ回って昨日の今日では学校には行きづらい。それどころか、学校に行くこと自体耐えられなくなりつつある。
左手を器用に使って布団を拾い上げるとベランダの柵に掛ける。途中無意識に右手を使おうとして引っ込めた。痛み止めの効能が切れかけているのか、鈍痛が無視できないほどに強い。
敷き布団まで干し終わると、彼はベランダの鍵を閉めて部屋に戻る。薄いレースのカーテンも開け放ってあるものだから、部屋の中は光に溢れている。
昨日医者で渡された錠剤を飲んで、椅子に腰掛けて日光浴としゃれ込むのだ。膝に掛かる陽光の毛布が心地よい。眠気は飛んでいるはずなのに、気が付けばうとうとしていた。
「おれは猫かよ」
ベランダの隅には、彼と同じように太陽毛布の中で丸まった野良猫が一匹。柵に停まる小鳥などには目もくれず惰眠を貪っている。
昨夜荒れ狂った情欲も綺麗に拭きとられて、痕跡さえ見いだせない。太陽光線には殺菌作用があるという。ならば彼の身体に居を定めたやっかいな情動も、ついでに浄化して欲しい。背もたれに上半身を預けて胸元に光を呼び込むと、衣服を抜けて皮膚を抜けて、内臓まで届くような気がするのだ。
こんな生活がいい。
日の当たるところで日がな一日座っていたい。
しばし目を閉じて陽光を堪能してから、ようやく彼は立ち上がる。風呂場に向かうと、洗面器に水を溜める。そして息を止め顔面を水に浸す。
息の続く限り、一分ほど顔を付けていた。酸欠が限界に達してから顔を上げる。伸びた前髪を水滴が伝って、胸元に小さな斑点を幾つも付けた。
続いて、力を入れられない不便な歯磨きを済ませると、タオルを首に掛けたまま居間に戻る。腹が減っていないので、食事をする気にもならない。だからいつものようにテレビを付ける。どのチャンネルも朝のワイドショーが終わるところのようだった。
ひどく退屈。
しかし退屈こそ安らぎである。
番組は昼の時代劇に突入していた。
彼は木椅子の上で眠り掛けていた。
同じく、彼の欲情も眠り掛けていた。
ドアに備え付けの覗き窓から見えるシルエットは女のものだった。よく知った姿態だ。それは彼が今、最も会いたくない、そして最も会いたいと願っていた女である。
「天嵩先輩」
横隔膜を震わせる不気味な不定形を抑え込もうとするあまり、声がひどく間の抜けたものになってしまう。
「明、開けてちょうだい? ご飯作ろうと思って」
言うと、覗き窓の魚眼レンズにゆがめられた人型が、手に提げた買い物袋を掲げてみせる。
――ここで開けたらおしまいだな。
開けるわけがない。顔を見るのも口を利くのも鬱陶しいはず。開けるわけがない。
女はその上半身を薄手の白いセーターで覆っていた。胸元の開いたVネック。首筋にシンプルなネックレスが光っている。逆光になって表情は伺い知れないが、彼には睫一本に至るまで完璧に想像できる。
彼女は天嵩灯だ。
「そんなの悪いですよ」
気が付けばドアを開け放っている。
向こうから、少女の香りが風と共に吹き込んでくる。彼女は歩を進めて玄関内部に進入する。彼は身体をずらしてスペースをあけ、スカートの裾が彼のズボンに軽く触れた。
見下ろす先に、灯がいる。
彼女は綺麗だった。
「本当に…悪いですから」
「もう。遠慮しないで。その手、不便でしょう? ご飯も作れないし」
「大丈夫ですよ。左手は大したことないんです。医者が大げさだから」
彼はわざと両手を振って笑う。口内に唾液が溢れていた。脇の下から腕に掛けてちりちりと電気が走る。
天嵩灯は「姉」だ。
広げた両腕を、少女を抱き込んだまま閉じれば…。
閉じこめてしまえば。
奥歯を強く噛みしめているものだから、笑みは少しぎこちないものだったかもしれない。
彼女は驚くほど小さい。自らの体中に、すっぽり閉じこめてしまえるほどに小柄で、弱く、優しく、甘く、柔らかく見える。
例えばライオンが鹿を見つけたとき、こんなことを考えるはずだ。
不意に灯がビニール袋を床に置いた。
乾いた擦過音が狭い洞窟に響く。
次の瞬間、明の右手は女の両手に包まれていた。
そのまま女の胸元に導かれて、女の身体は男の胸に導かれていた。明の右手は柔らかい肉に包まれて、そのまま灯に食いちぎられてしまった。。
灯の額が首筋に触れる。髪にしみこんだリンスの匂いが明の鼻孔を蹂躙する。彼は空いた左腕をだらりと垂らしたまま。
灯は鼻先を擦り付けるように頭を動かしていた。例えば生まれたばかりの猫がそうするように、半ば意地になって、自らの匂いを染み込ませる仕草。
美しい髪の森から微かに顔を出す耳の先が、真っ赤に充血している。透き通る白い肌の向こうに、旨そうな血流が見える。血液すらも甘く、かすかな粘度を持っているのだ。
「先輩」
掠れた声は明のもの。灯は応えずに、あいも変わらず鼻筋を少年の鎖骨に押しつけている。
肌に熱い水気を感じる。瞬間熱く、直ぐに冷えるそれが、女の涙の名残だと分かったとき、明の左手が揺れた。
「先輩?」
「ん…んん…」
「先輩。離れてください」
彼は言いながら身体を引き、張り付いた灯を引き剥がす。体温の残滓は急速に力を失って、男の引き延ばされた肉体に溶けていく。
「どうしたんですか?」
「ううん…なんでもない。あの……ごめんなさい。突然」
灯はビニール袋を持ち直した。
「ね、ご飯作るわ。今日はお掃除もしましょう。学校はお休みでしょう?」
「今日はその…行きませんけど。先輩はいいんですか? こんなことしてて」
「構わないわ。弟の世話をするのに、学校なんてどうでもいいの」
彼は曖昧に頷くだけ。それ以外に返事の仕方を知らなかった。
彼は『弟』だ。
言いたいことを言い切ってしまうと、女は断りもなくさっさと室内に入っていく。空いた左手で両目を軽く擦る仕草をぼんやりと見つめながら、少し遅れて明も続いた。
「あら、お布団干せたのね」
「だから、大したことないんですって」
「それでも、これからはしなくていいわ。わたしがやってあげる」
セーターの袖をまくり上げて、買い物袋から食材を取り出す。彼は手持ちぶさたに、姉の後ろ姿を依然眺めていた。
「ねえ、朝ご飯は洋食? 和食?」
「おれ、朝は食べないんです」
「じゃあお昼ね。お昼はどっちが食べたいかしら?」
綺麗な背筋。浅く湾曲している。首から伸びたラインの先に、スカートに包まれた尻が見える。そして、ストッキングで覆われた二本の細い足。あの太股。それはきっとカモシカの後ろ足のように、適度の筋肉と適度の脂肪を纏って、絶妙の影絵を描くのだ。
「洋食で」
「そうね。なら、スパゲッティにするわね」
この女は三日前の出来事をどう捉えたのだろう。自分は彼女を酷くきつい言葉で突き放したはずだ。姉弟だの血縁だの「吐き気がする」 そう叫んだ。彼女は自分の「吐き気」がどんなものか、理解できたのだろうか。
叔母からなんらかの指図を受けているのかもしれない。相変わらず、人のテリトリーに土足で踏み込んでくる。彼はこう言ったはずだ。「血縁」だろうがなんだろうが、自分の部屋は「土足厳禁」なのだ、と。
灯はどんな反応を示すだろう。自分が姉弟の絆など、もう食いちぎってしまったと知ったら。視界の端に揺れる女の髪は、まるで生き物のように蠢いている。
灯は綺麗だ。特に後ろ姿が。
彼女は黙って受け入れるのだろうか。都合のいい笑みを浮かべて? それとも泣き叫ぶだろうか。不潔と、獣性と、罵るだろうか。灯はこの家に居着くのだろうか。
このおれと、暮らすのか?
口腔を満たす唾液には、きっと血が混じっている。飲み下すけれど、決して尽きない。
明はひどく腹を空かせていた。もう丸一日――あるいは、一七年間――何も口にしていなかった。
台所では、調理された食材が欲をそそる香りを発していた。
『山月記』という小説がある。古代中国の逸話に発想を得た中島敦の小品だ。漢語の素養があった彼は、生硬な楷書のような文体で一種の根元的な変容を描いた。芸術に絡め取られる余り、虎と化して獣性に塗りつぶされてしまう男の話である。
明が『山月記』に出会ったのは高校受験の時。国語の参考書に問題文として掲載されていた。最後の記述問題を今も覚えている。
『主人公はなぜ虎になってしまったのか。文章の内容を踏まえて説明しなさい』
彼にとって、答えは自明の物である。主人公は虎に「なった」のではない。虎になるべくして生まれたのである。彼の不幸は、自分が虎へ変身するのが「おかしなこと」であると思っていた点であろう。男は、始め人型に産まれ、長じて虎に化身するような「生物」であって、そもそも「人間」ですらなかったのだ。詩作や芸術などに、人間を虎に変える力はない。まだ四肢もない、胎内の細胞だったとき、男は既に定められていた。長じて虎になり、人を喰い殺すように、定められていた。
運命論と呼ばれうる思想は歴史上数多く存在する。精緻な機械人形よろしく組み上げられた先達の系譜に、明のそれを連ねるのは酷であろう。少年のそれはあまりにも稚拙で、あまりにも怯懦であったからだ。
二人は黙々と食べた。フュエルタンクにガソリンを注ぎ込むように、麺の束をひたすら食道に流し込む。ナポリタンの赤は鈍いのに、なぜか目を捉えて離さない。灯がスーパーで買ってきた烏龍茶の苦みが、口内の赤を洗い流してくれるかも知れない。だから飽きもせず、琥珀色の液体を飲む。
咀嚼音が耳に付く。一人前を綺麗に平らげた明は、遅々として進まぬ灯の食事をただ眺めている。フォークを麺に絡ませる仕草が、男の下腹をつつく。
「あんまり見ないで。食べづらいわ」
「すいません」
今度は視線をテレビに移す。だが、根源的な解決策にはならないだろう。若手の芸人たちが空騒ぎをするスタジオ。転じてこの部屋には、空になった皿と、表面に無数の傷があるテーブルと、光。他にはなにもない。
灯がいれた食後のコーヒーは叔母のそれと同じ味がした。インスタントの粉を使っているとはいえ、分量が違えば濃さも違う。
ならば、やはり灯は他人だ。彼のコーヒーは、父親にしか再現できない。そして父親のコーヒーも、彼にしか再現できない。
カフェクリームの代わりに牛乳。パックから直に注ぐと、途端に黒が失速し、白が支配を始める。
「ねえ、明」
「はい」
「おいしかった?」
「美味かったですよ」
自分でも上出来と感じていたのだろう、灯は弟の言葉を聞いて満足げに頷く。
「料理には少し自信があるの」
「そうですね。この前作ってもらったのも凄く美味かった」
「そう言って貰えると作りがいがあるわ」
灯が浮かべた笑みを彼の双眸が啜っている。細く開いた口の中、トマトソースに染められた紅い舌。残像を残して消えた舌に、彼の心臓は飛び跳ねる。
彼は無言でリモコンを操作してテレビの電源を切った。
ここにはもう、音はない。
午後の光しかない。
「ねえ、明……」
今度の呼びかけは少し低いトーン。真剣な表情。顔の中心に細い鼻梁。唇に桜色の口紅。緩い湾曲の髪は、豊穣の角笛を思い起こさせる。
「一緒に…住めないかしら」
メトロノームの針は、振幅の限界を超えると壊れてしまう。壊れて動かなくなる。どこを指して止まるかは運次第だ。
「先輩は、他人が一緒に暮らせると思いますか?」
「思うわ」
今度は明が笑う番だ。普段張り付いた笑みではない。もっと繊細で、もっと醜い。
「明は『他人』って言う。そう。わたしたちは確かに他人よ。だけど…」
「だけど?」
明は待った。どちらにしろ灯が言いたいのならば最後までいうべきだ。彼にはそれを押しとどめる権利などない。
「だけど、『他人』との関係は、切ることができるでしょう? 話をしなくなったり、嫌になったり。それでお仕舞い。結婚したって同じ。父親が犯罪を犯して…」
そこで再び彼女は口を噤む。明には自分が今どんな形相で彼女を睨み付けているか、想像も付かない。
「それで?」
「…母親は他の男の人と! それでお仕舞い。でも、わたしたちは違う!」
語気が明の頬を叩く。腹の奥から注がれた黒い液体が、白い部分を支配する。コーヒーと牛乳のように。いつも支配する。
灯は言った。『わたしたちは違う』のだと言った。二人はいつまでも姉弟なのだ。『山月記』の虎人と同じく、胎内に居たときから定まっていた。今までも定まっていて、これからも定まっている。
「明。ね? 明。どんなことをしても、わたしたちは絶対に切り離せないの。戸籍に書かれてる。後から出来た関係じゃないわ。産まれる前から決まっていて、死ぬまで…死ぬまで」
彼はゆっくり立ち上がった。部屋の奥まで、男の影が伸びていく。真っ白な視界はきっと立ちくらみ。そう思った。
彼にもう少し度胸があったら、今すぐベランダに出て、迷わず柵を乗り越え身を投げただろう。もちろん下は芝生、部屋は二階。精々足を折る程度。
彼には覚悟がなかった。貫き通す意志もなければ、あくまで逃げる勇気もない。寂しさを耐えることもできなければ、寂しくないと強がる自尊心すら欠けていた。
彼は脆弱な精神だ。
「ねえ、明。一緒に居ましょう。わたしはあなたの姉でしょう? 誰も、なにも、それを否定できない」
明に合わせて灯も立ち上がる。
彼はゆっくりとテーブルを迂回して、女の正面に立った。大きな男の身体が、日の光を灯から取り上げる。
彼女は今、影の中にいた。
「本当に?」
「ええ」
見上げる女の瞳には、極小の懼れが浮かんでいることに、彼は気が付いた。
「試してみるか?」
明の目の中に一人の女が居た。
自分を見上げる顔の筋肉は、石膏で固められて動かない。女の首筋。セーターの下に盛り上がった胸。全て。
彼はこの瞬間、意味を完全に喪失した。
意味を失うように生まれついたのだ。
「姉さん」
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