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光について

第2部 第1回







 学校を二日休んだ。三日目に登校した朝には、明はいつもの彼に戻っていた。その顔はいつものように薄い笑みを浮かべていて、口調は柔らかく、物腰は静かだった。
 休んでいる間、何度も電話が掛かってきた。それは孝太郎からのものだったのだが、一度も受話器を上げなかった彼には知る術がない。 自分の机に鞄を置いて椅子に座る。すると孝太郎が近づいてきて一言語りかけた。
 
「落ち着いたか?」
 
 彼にも大方状況は分かっている。友人を刺激するべきではない。明がかなりの鬱屈を抱えて日々を過ごしていたことは容易に推測できる。苛立ちの原因は彼には特に問題とは思われないけれど、当人にとっては重大なことなのだろう。あの天嵩灯を姉に持つというのは大層羨ましい境遇のはずだ。だが、普段通り――まさに一片の違いもなく――淡々と鞄の中味を机に移している明を見ていると、好奇心から尋ねていいこととは思わない。
 
「ああ、なんか一人で騒いじゃってな。よくよく考えたらどうでもいいことなのに」
 
 答えた明の口調には戸惑いがなかった。どんなことにも動じないいつもの姿だった。
 
「分かった。そういえばあれだ。おまえが休んでる最中、小テストあったぞ」
「げぇ。ライティング?」
「ライティング。『センター試験からの抜粋もあるから、少し難しいぞ』とかほざきやがって。難しいとかじゃない。もうわけわからん」
 
 見事な声帯模写で英語教師の真似をした孝太郎に、明は小さく声を上げて笑った。
 
「最悪だなぁ。忌引き扱いとかにしてくれないかなぁ」
「無理だろ」
 
 公欠扱いならば再テストが受けられる。小テストは英語の単位考査に資料として加点されるのだから、少しでも点数をかすめ取れれば零点よりは幾らかマシなのだ。
 
「そうか。ある意味忌引きだったんだけど」
 
 冗談めかして明は笑う。
 彼の二日間は、確かに忌引きの一種だったかもしれない。だが事情をよく知らない孝太郎は、これもまた察する術を持たなかった。
 
「そういえばこれ、おまえに返しといてくれって天嵩先輩が。番号教えろよ」
 
 出来る限りのさりげなさを装って、預かったままの携帯電話を明に手渡した。
 
「悪い。番号な。番号まだ覚えてないんだよ。どうやって出すんだろ…これ」
「メニューボタン押して『0』で出る。たぶんだけど」
「お、出た出た。これだ」
 
 メインウィンドウに表示された番号を手渡すと、孝太郎も自分の携帯を取り出し、手慣れた仕草で入力していく。
 
「完了。取りあえずこれで連絡取りやすくなったわけだ」
「あんまり変わらないんじゃないか。今までも家の電話で済んだじゃん」
「そりゃそうだけど…なんていうか、気分なの、気分。家の番号に掛けるのって緊張すんだよ」
「そんなもんかな」
「うん。親とか出たら嫌じゃん。明の場合は関係ないけど、慣れってやつが」
「分かるよ」
 
 曖昧に語尾を濁して会話を区切った。普段電話を掛けることなどほとんどない明にしてみれば、共感するには経験不足だった。だが、孝太郎がそういうのならば、やはり携帯を持ったことはプラスだったのだろうと思う。
 返された機体を親指で撫でる。力一杯放り投げたのに、特に壊れてはいないらしい。蓋を閉めて、傷の有無を確かめようと裏面を見る。
 二つ並んで貼り付けられていたシールは綺麗に剥がされていた。まだ貼ってから時間が経っていなかったのが幸いしたらしく、糊も残っていない。滑らかにコーティングされたブラックの表面は鏡のように、彼の顔を映しさえする。
 彼は何かを失ってしまった。三日前には確かにそこにあった何か。それがどんなものだったかも分からないけれど、とにかく無くなってしまったことだけは理解できた。
 黒の鏡は小さすぎて、顔の全面を映すことはできない。辛うじて右目の周辺を、ぼけた映像に変換する。
 喉から迫り上がるのは、痰に似た固形物だった。きっと溜め込んだ涙が固まってしまったのだ。彼は自分の発想に陳腐な詩の匂いを感じて苦笑するしかない。どんなに辛いことがあっても、この世界はいつも通り流れていく。現に今、自分が大事件だと思いこんでいた諍いはクラスメイトにすらほとんど何の影響も与えていない。皆の興味は常に変わらず、テレビ番組であったり、音楽であったり、ゲームであったり、あるいは受験であったりする。そこに彼の感傷が入り込む余地はない。
 
「授業ダルイな。連続で休むと休み癖ついちゃって」
「ダルいよ。今日も世界史あるぞ。ありえねぇ」
 
 ホームルームの時間が近づいていた。二人は大人しく自席に座る。前席の孝太郎が身体を捩って後ろを振り向く格好で、尚も会話は続く。
 
「そういえば、例のプリントやったの?」
「やったよ。取りあえず。アヴィニョン捕囚の内容初めて知った」
「今まで知らなかったのか…」
「なんとなく語感で覚えてたからな」
「それはギイチに感謝だな」
 
 生徒達は世界史教員の金山義一を、親愛を込めて「ギイチ」と呼ぶ。恨みがましく文句を言う坂下にしたところで、金山を嫌っているわけではない。生徒を管理する側にいることを認めながら、立場を明確にした上で生徒達と交わろうとする彼のやり方は、学生側に立ちうると勘違いした新人の教員などよりもよほど信頼を勝ち得ていた。
 
「まぁ確かに。ユキちゃんが時々ウザいことを思えば、あのおっさんは凄い」
「水谷先生いいと思うけどなぁ。キリっとしてて」
「なに? 明はユキちゃんラブかよ」
 
 彼らのクラス担任である水谷有希子とは、立場上接触する機会が他の教員よりも多い。だからこそ称賛一辺倒に振れることはない。接する時間が長ければ、嫌な面も見えてくるのは当然のことだった。
 
 水谷有希子は新任の教師としては数年来の「アタリ」であった。美しい容姿と気さくな性格は、男女別なく広範な人気を獲得していた。孝太郎などはクラス担任が彼女であることを知ったとき、柄にもなく変な妄想をしたものだ。一方の明にしても、あえて話題にするほどではないが、彼女に不快感を覚えているわけでもない。多少の冗談は許容してくれる、話の分かる教師の一人。彼の見方はその程度のものである。
 
「最近ユキちゃん、体育祭体育祭ってウルサイだろ。ああいうのはもっとクールに」
「でもジャージ姿が楽しみな孝太郎、と」
「つうかさ、身近な女のジャージとかって、結構ぐっと来ない? おれなんか美帆でも来るからな。……この前やったぞ。体操服。マジで燃えた」
「うはぁ…。やばいなぁ。想像しそう」
 
 突然の猥談突入に、明は思わず仰け反ってしまう。朝も八時台だというのに、一度エンジンの掛かった孝太郎は止まらない。声量が小さくなっていくのと反比例して、内容の過激さは増していく。
 適度に相づちを打ちながら、明は笑いを噛みつぶしていた。話題の中心人物である上月美帆とは何度か会ったことがある。放課後、孝太郎を捜してクラスにやってきた彼女に、彼の居場所を教えてやるのはよくあることだった。
 やはり知り合いの「そういう話」を聞くというのは妙な気分だ。自分の身体が興奮しかけていることに気が付いて羞恥が混じる。説明不能の気恥ずかしさに動かされて、彼は頭を掻いた。
 
 その瞬間、脳裏に一瞬浮かび上がる女の姿を、彼の意識は確かに捉えていた。
 
 膝を揃えて足先を横に流したまま、畳の上に座っている。綺麗な折り目のついたスカートが複雑な曲線を描いて、生の太股を彼の視線から隠していた。前屈みにこちらを覗き込む彼女の肩から、深黒の髪がばさりと落ちて、その頬を覆い隠す。
 
 それは小さな身体だ。
 彼は少女の華奢な首筋に顔を埋める。
 獲物の匂いなのかもしれない。
 産まれたばかりの猫のように柔らかい肌に、男の硬いそれが擦りつけられてゆく。
 
 全ての映像は、たった一つの事実を彼に示していた。勃興する下半身の熱が一瞬にして霧散する。喉の奥から迫り上がるものは、今度は涙の塊などではない。
 
――正真正銘の吐き気。
 
 なぜなら彼の脳みそが描き出した美しい形象は彼の「よく知る」女のものだったから。
 
「ああ……」
 
 いきなりうめき声を上げて机に突っ伏した明に、止めども尽きせぬ猥談を一時中断した孝太郎が尋ねる。
 
「どうした?」
「いや…なんでもない。なんか凄い気分悪く…」
 
 それ以上口を開くこともできなかった。全身の水分が毛穴から吹き出してしまう。
 酷すぎる。そう思った。思いつく限りの呪詛が腹の中で沸き立って、突破口を求めて暴れ回る。
 
 廊下を走る。上履きのゴムが床のワックスを削る。前髪の下で汗が止めどなく溢れていた。学生服の襟ホックを外し、微かな冷気さえも取り入れようとしていた。
 
――くそっ、こんなの酷すぎる!
 
 口腔を満たす唾液を吐き出す暇さえない。目尻を浸す涙を拭う間もない。
 
 入り口のところで喋っている数人の生徒を押しのけるようにトイレに入った彼は、個室のドアを閉めると、胃の内容物を全て吐いた。喉に焼け串を打ち込まれて、胃液の酸味が弾け飛んだ。こめかみの辺りから頭蓋骨がひび割れて、貧相な中味がこぼれ落ちていく。
 
 目眩は膝から登ってくる。顫動を止めない太股の筋肉が、全身に震えを伝えるのだ。
 
 便器の肌を滑っていく吐瀉物を見つめる視界は滲んでいた。洗剤の匂いが鼻梁を刺す。千度刺す。ワイシャツの襟を濡らす脂汗はきっと、顎の下から垂れ下がる唾のようだ。
 荒い呼吸を鎮めるために、彼は壁に凭れていた。冷たい陶器の壁面も、服の布地に挟まれて、男の肌を舐めてはくれない。
 
 個室の内壁はぼやけているのに、誰かが悪戯に書いた鉛筆書きの小さな落書きだけはひどくはっきりと読めた。
 それは精密誘導の爆弾よろしく、明の双眸を捉えていた。
 
『灯ちゃんとSEXしたい!』
 
 四肢の血液が逆流する。食いしめた奥歯が頬の肉を巻き込んで噛み切った。
 
 明が感じたのは怒りだった。
 極度の、心身を削る怒りだった。落書きに怒ったのではない。姉に対する誰かの欲情を怒るのではない。
 
 
 ただ、自分自身に怒っていた。
 
 
「なんでこんな……ふざけやがって…」
 
 涙混じりの声は惨めで、とにかくなにかに渇いていた。
 
「ふざけやがってっっ!!!」
 
 拳の骨が折れるのに派手な音は必要ない。
 全身の体重を乗せて、彼はドアを殴った。
 擦れた拳の皮。
 滲む血は、綺麗な流線型をドアのくすんだ白に残していた。

 
 
 
◆◆

 
 
 

 玄関を上がり右手に突き当たりまで進むと、生徒指導室がある。隣接した雑木林の陰になっているからか、日中でも薄暗いそこは、まさにうってつけのロケーションを利用者に提供していた。
 一般の教室の三分の一ほどしかないスペースには、合板の薄い折りたたみテーブルが二つ。それぞれに三脚、パイプ椅子が備え付けられている。
 明は最前列のテーブルに大人しく腰を下ろしていた。その佇まいから、何があったのかを推測することはできない。ただ、頬に散った血の斑点が凝固して、先刻の興奮の余韻を伝えていた。
 
「今回のは、弁償とかはせんでいい。これから先生方で協議するから、な。ありゃ高江は悪くない。犯人はきっちり突き止めてやるから。…高江」
「本当に済みませんでした。最近おれ、おかしいですね」
 
 明の殊勝な返事に、ふて腐れた空気はなかった。心底反省している。教師として十数年数多くの生徒達を見てきた金山には、明の言葉が真正のものであることがよく分かっていた。
 
 二年の高江明がトイレで暴れている。そう生徒の通報を受けたとき、金山はひどく驚いた。彼が授業で目にする明は、とても乱暴な行動に出るとは想像も出来ない穏やかな生徒だった。授業態度は真面目で、成績も悪くない。かといってクラスから浮いた真面目一辺倒というわけでもなく、時折友人と無駄話もする。至って普通の男子生徒。身長が高いことと、落ち着いた雰囲気以外、これといって印象に残るところもない。
 或いは誤報かと首を傾げつつ、現場に向かった金山が見たのは、しかし、授業中とはかけ離れた明の姿だった。彼は地面に倒れた個室のドアを無言で殴り続けている。両手の拳は真っ赤に染まり、至る所に血痕が飛び散っていた。
 慌てて明を背後から羽交い締めにして引き離す。若い大柄の身体をじっとさせておくのは如何に柔道の段位を持った金山といえども容易ではない。野次馬になっていた周囲の男子の力を借りて少年を押さえつけると、半ば引きずるようにして廊下に連れ出したのである。
 
 右の拳は骨折していたらしい。取りあえず近隣の病院に連れて行ったはいいものの、待ち時間の関係で、両手を治療して再び戻ってきたときには、既に午後一時を過ぎていた。
 
 取りあえず少年を生徒指導室に押し込むと、金山は状況把握に走った。二年生の学年主任である彼にとって、生徒が引き起こした騒動の処理は職域の一部である。だが、職務ゆえの責任感だけではない。ある種の嫌な予感が胸中に宿って消えないのだ。
 高江明は数ヶ月前に父親を亡くしたばかり。思春期に肉親を亡くした生徒はそれをきっかけに豹変することがある。荒れるだけならばまだ良いが、精神的な傷を恢復できずに心を病み、自傷行為に走る者もいる。
 明の場合、父親の忌引きが開けて以降、遠目に見る限り落ち着きを失っていなかった。調査書によると、新聞配達をして家計を助けるなど、自立心を培う素地が揃っていたこともあり、その後迷走する可能性は低いと金山は考えていた。
 
 明の友人である坂下孝太郎が騒動の原因とおぼしき事実を指摘したことから、いざこざの調査で最もやっかいな動機の特定は直ぐに終わった。
 トイレのドアに書かれた落書き。そこに書かれた名前が明の姉のものだったのである。
 
 天嵩灯。
 三年生の授業を受け持つこともある金山だから、名前を聞けば直ぐに分かる。県立栢高校では一、二を争う有名な女子生徒である。資産家の一人娘で、成績も飛び抜けて良い。そしてなによりもその美貌が、偶像に飢えた生徒達の格好の代用品になっていた。
 
 三年の主任に事情を聞き、灯と明の続柄を知った彼には直ぐに得心がいった。父親を亡くしたばかりの明は、姉――最も近しい肉親としての――に対する劣情的な落書きを許せなかった。表面上は落ち着いていてもまだまだナーヴァスな時期、普通ならば苦笑して済ませる小さな瑕瑾が我慢ならなくて、発作的な行動を起こしたのだろう。今後はクラス担任にもそれとなく見守らせ、ゆっくりと落ち着かせればよい。
 これからの方針に大まかな当りをつけて、金山は生徒指導室で明と向き合っていた。
 
「あの…」
「なんだ? 腹減ったか? そういえば飯食ってないだろう。よし! おれが奢ってやる。学食の数あるメニューの中から、最高峰のダブルカツ丼で…」
「いや、腹は空いてるんですけど、それはおいといて…」
 
 力の抜けた笑いで教師の冗談に応える。
 
「犯人捜しとか止めといてください。勝手にむかついてただけですから。…あんまり意味ないですし」
 
 意外にも冷静な明の発言に、金山は驚きを隠せない。
 正直なところ、今回のような落書きが重大な意味を持つことはほとんどない。行動は下劣であろうが、悪意がない場合が多いのだ。完全に身元が分かってしまう高校内部においては、誰かが灯に「本気」で危険な劣情を抱いた場合、直接的な手段を執ることが出来る。なにもトイレに落書きをする必要などないのだ。だから大概は、落書きは生徒間の猥談が少々度を過ぎた形で表出しているだけで、テレビのアイドルに熱を上げるのと大差がなかった。
 
「まぁ、確かになぁ…。だが、調査はする。当たり前のことだが、放置はできんだろ」
「分かります。でも、天嵩先輩が嫌な思いするのも可哀想じゃないですか」
「そこらへんはぬかりなく、だ。おれが何年教師やってると思ってる。おまえが産まれる前から教師一筋二十年…」
「ははは。すいません。なんかおれ、ちょっとほら…なんでしたっけ? 釈迦がなんとか」
「釈迦に説法、か? よし。高江はその辺が苦手らしいな。今度金山謹製アショカ王プリントで、インド歴代王朝総ざらい…」
「いらない! いらないです」
 
 明は包帯が巻かれた両手を軽く振って嫌そうな素振りを見せる。
 ひとしきり笑った後、不意に金山が尋ねた。
 
「そういえばおまえ、天嵩どうしてるか知ってるか?」
「どうかしたんですか?」
 
 明の質問に金山は無言で頭を振った。
 
「今日もだが、ここ三日学校来てないみたいでな」









 決まり切った挨拶とともに招じられた部屋の中には白い光が天井に張り付いていた。居間にはいると人の声がする。小さな古いテレビが吐き出すそれは、機械に犯された人声だった。
 黙って周囲を見渡す倖に、明も身振りで椅子を勧めた。女が席に着いたのを見届けると、彼は最小限の動作でテレビの電源を切る。
 一瞬。一秒の数十分の一の瞬間を境に、部屋は無音のゲルに包まれる。沈黙からは誰も逃げられない。相手に合わせて幾らでも形を変えるそれは、躊躇の欠片もみせずに人を殺す。
 先に口を開いたのは倖だった。静寂の恐怖は、日々親しく付き合わなければ克服できない。意味のあるはずだった発話がその意味を無惨にはぎ取られ、裸の音となってたゆたう様に、その無感動な屠殺に、眉一つ動かさぬほどに慣れていなければならないのだ。
 
「明くんはお父さんに似てる。驚くくらい」
「そうですか? それは…うれしいな」
「勇次さんもこんな感じだったわ。わたしはまだ子供だったんだけど――中学生くらいかな――最初に会ったときは、クラスの男子たちとあまりにも違うからもう、驚いちゃったわ。ああ、大人の男の人ってこうなんだなぁ、ってね」
 
 悪戯めかして彼女は笑う。だから明も笑い返した。倖の話は大しておもしろくもなかったが、彼女の表情が、笑ってくれと懇願していた。
 
「勇次さんのこと、教えてくれない?」
「特に目新しいことはありませんでしたよ。家にもほとんど居なかったですし。休みの日には一緒に遊んだりしましたけど。普段はあんまり会話もなくて」
「そうなの…。その……寂しくなかった?」
 
 彼女は頬に掛かった髪を掻き上げ耳の後ろに流す。しかし、直ぐに俯いてしまうものだから、ばさりとまた落ちる。明と話し始めてからもう四、五回は見せているその仕草はきっと彼女の癖なのだろう。明はそんなことを考えていた。
 人間が一人増えただけなのに、部屋の気温は大層上昇したように思う。皮膚から、鼻から、口から放出される排気がそうさせるのか。
 
「寂しいときもありましたけど、そればっかりってわけでもないです」
 
 少年の言葉に他意はない。それが分かるだけに倖の心は締め付けられる。それは憐憫といってもよい。唐突に自らの心中に飛来した新たな感情に、彼女は容易に流される。いろいろな要素が全て、女に一定の方向を強要したのだ。
 昔憧れた男とうり二つ。母親から半ば捨てられて、独りで寂しく暮らす甥。生後二日の猫が雨ざらしで道路に放置されているのを見て、憐れみを感じるのと同じように、確かに彼女は憐れんでいた。
 
「そう。…遊ぶって、何をしたの? 男の子の遊びってあんまり想像付かないなぁ」
 
 自分はどうかと振り返ってみれば、勇次にねだって遊びに連れていって貰ったこともある。「大人の人」を連れている。それがひどく誇らしかった。食べたい物を食べさせてくれ、欲しい物を買ってくれる。話したいことは聞いてくれる。同年代の男の子たちのように、張り合う必要もなければ、欲情した瞳を避ける必要もない。まだ幼かった天嵩倖にとって、勇次は「お姉ちゃんの旦那さん」でありながら「世界で一番かっこいい」大人の男だった。
 
「キャッチボールとかしましたね。父は身体が大きくて、どこに投げても取られちゃうから、すごく悔しかった思い出があります。キャッチボールは相手に取ってもらえるように投げるものなのに…」
 
 今度は明が噛み殺した笑いを浮かべた。俯き気味に口元を締めて肩を上下させる様は、父親の仕草の面影を色濃く残していた。
 
「いいわね。目に浮かぶわ」
「子供の頃、お会いしたことありましたよね。そういえば」
 
 言いながら、コーヒーでも入れようと彼は立ち上がる。両手に巻いた包帯が倖の目に入る。学校から電話で連絡を受けているため、なぜ包帯が巻かれるに至ったのか、事情は承知していた。
 
「わたしやるわよ。座っていて」
「でも、お客さんですから」
「甥にお客さん扱いされるのは寂しいものよ。大丈夫。三十過ぎて独身の女は紅茶とかコーヒーとかに無駄に凝るの。そんなイメージあるでしょ?」
 
 どう答えるべきか分からずに彼は苦笑いでお茶を濁した。
 
「こんなおばさんが毎日『カレシのハートをワシヅカミ! 春のなんとか特集』とか書いてるなんて、少しおもしろいと思わない?」
「おばさんだなんて思いませんって。倖さんは綺麗ですよ」
 
 そういえば昔、新しい服を買ったら真っ先に勇次に見せたものだと、てきぱきと二セットカップを用意しながら彼女は思いだした。彼はこう言っていた。 
『倖ちゃんは何を着ても綺麗だ』
 すると姉がやってきて、彼女の夫へのご執心を茶化して笑うのだ。思えば自分は本気で姉の冗談に憤慨していた。まだ穏やかだった頃の思い出が無意識のうちに後から後からわき出してくる。
 台所でむき出しになった電灯の光を浴びながら、倖はやかんに水を入れる。狭い台所。彼女の雑誌と同じ会社から出ている二十代の女性向き雑誌では、目も当てられないほどに叩かれる、給湯器もついていないシンク。だが。
 例えば勇次の隣に立つのが姉ではなくて自分だったら。自分はこの小汚いキッチンに満足しただろうか。たぶん満足しただろう。恋愛は絵空事ではないと嫌と言うほど分かっている彼女にさえ、過去の記憶は抗いがたい魅力を持っていた。
 
「ありがとう。お世辞でもうれしいかな」
「ははは。なんか照れますね」
 
 乾いた笑い声さえも父親とどこか似ている。それは危険な相似だ。倖があこがれたのは「大人の男」としての勇次だった。明は逆に、十歳以上も年下の少年だ。なによりも姉の息子なのだ。
 
「ねぇ、明くん」
「はい?」
 
 前から計画していたこととはいえ、この時彼女が話してしまったのは、部屋に充満した独特の雰囲気のせいだったかもしれない。
 
「一緒に住まない? 灯と、わたしと一緒に」
 
 これで明が勇次と似ても似つかぬ年相応の少年ならば言うことはなかった。甥と姪を義務感から預かる年長者の役を淡々と勤めることができただろう。だが、どうやら事はそんなに単純でもないらしい。
 もちろん彼女はいい年をした大人である。夢は放っておいてもさめるだろう。だから明を手元に置いて暮らすことで、逆に過去の残滓をすっきり掃き捨ててしまいたかったのかもしれない。
 
「いいですね」
 
 この『いいですね』がどういう意味を持つのか、よく分かっている。何かを断る時に冒頭に置く接頭辞。もう一歩踏み込んでみるべきだろうか。あるいはここで引くべきだろうか。一瞬の躊躇をはねのけて、彼女はもう一言、言い募ることを選んだ。
 
「灯がね。部屋から出てこないのよ。もうこれはうちの女の血筋なのね。お母さん…明くんのおばあちゃん…もそうだったんだけど、天嵩の女は、嫌なことがあるとすぐ部屋に籠もるの。布団をかぶってじぃっとしてる。あなたのお母さんも、灯も」
「倖さんもですか?」
 
 自身も同様だ。部屋に鍵を掛けて、ベッドの中に潜り込んで、最低二日は出てこない。会社勤めを始めてからはそうも行かないことが多いけれど、未だに幼時からの慣習は完全に抜けきっていない。
 
「そうね。わたしも」
 
 だから素直にそう答えた。
 明の家にはコーヒーメイカーなどといった大層な代物は存在しない。畢竟インスタントに落ち着いて、味がどうこうと語る術もない。それでもコーヒーはコーヒーだ。彼女は濃い方が好みだから、明の好みを尋ねることもなく普段通りに入れてしまった。
 カップを両手に持って居間に帰る。それぞれのソーサーにスプーンを付けて、こぼれないようにゆっくり運ぶ。自分の前に一つ、少年の前に一つ。カップを置いて彼女は自席に再び腰を下ろした。
 
「残念ですけど、籠もる部屋が足りません」
「ねぇ、明くん。その言葉に深い意味がある?」
「いえ。単純に、ここには二部屋しかありませんし」
「じゃあ、わたしが新しく部屋を借りたとしたら?」
 
 明は黙り込んだ。包帯で固められた手をぎこちなく動かして砂糖を二杯、黒い液体に注ぐ。
 
「どう? わたしは生活に干渉しない。アルバイトもする必要ない。来年は受験だし、そのほうがいいんじゃない?」
「ありがとうございます。でも、倖さんにご迷惑が掛かりますから」
 
 妙な気分だった。倖は不可思議な既視感を拭おうとカップに口を付けた。昔、勇次に弁当を作ってやろうとしたことがあった。学校の調理実習でも好評だった料理の腕を「勇次さん」に見せたかったのだ。
 彼は断った。
「明日は朝が早いんだ。起きるの辛いだろ。ありがとう」
 その一言で彼女は察することが出来た。自分の善意は男にとってありがた迷惑の類なのだ、と。
 
 今、自分は明に父親と同じやりかたで拒絶されるのか。
 頭に血が上る。
 ゆっくりと口実のヴェールが剥がれ出した。
 
 最近姉の匡子は家に帰らない。たぶん外に男が出来たのだろう。灯はそれを察している。明との間に起こったいざこざも含めて、灯は打ちのめされているはずだった。
 去年恋人と別れてから、倖もしっくり来る相手を見つけられない。一生このままという訳にはいかないだろう。自分はまだ美しい。自分はまだ頭が切れる。幾らそう言い聞かせても、焦燥は募る。およそ男など省みないシングル志向ならばよかったのだが、生憎学生時代からイデオロギーには無縁だった彼女には、それは目を背けたくなる残酷な真実だった。
 
「これでも貯金だけはあるのよ。わたし」
「そういう問題じゃないですよ。そもそもこの部屋の家賃を助けていただいているだけでもお世話になってるんです。これ以上…」
「ねぇ明くん。灯を助けてやって。あの子、打たれ弱いのよ」
 
 灯をだしにしている。自覚はしているが、明の翻意を促すことができるのは灯だけだ。なんといっても、血は水よりも濃いのだから。
 
「先輩に伝えてください。ひどいこと言って済みませんでした。って」
「何を言ったの?」
「いろいろです。そのとき頭に血が上っちゃってたんですね。きっと」
 
 一切内容を語るつもりはない。少年の顔ははっきりとそう告げていた。
 
「ええ。伝えておくわね。取りあえず、さっきの話は考えておいて。返事は急がないわ」
 
 これ以上の無理強いは不可能と判断したのか、倖は会話をあっさり切り上げた。

 
 
 
◆◆

 
 
 

 血縁の鎖は鉄で出来ている。そして鉄は腐食する。
 
 彼が想像の中に飼っている少女はとても美しかった。いい匂いがする、柔らかい肉で構成されていた。彼は今、剥き出しになった無防備な腹を撫でている。それは細い。雄性体から見れば不可思議な部品である二つの乳房の下で、ゆっくりと波打っている。
 エロティックな写真誌やアダルトビデオとは違う。彼女の身体は、薄紅色の滑らかな肌は、ルネサンス期の画家が描く裸婦像に似ていた。
 彼のお気に入りは女の長い髪と鎖骨の間。彼だけのために作られた空間である。体温が髪の中で温めた空気の中には、リンスの強烈な香気に混じって、女の肌の匂いがある。新陳代謝を繰り返す細胞の一片一片が作り出す、本物の、生き物の匂いだ。
 
 人間は肌を隠すために服を着る。同様に、裸の精神を隠すために「意味」の覆いを掛ける。意識が他者を自己の一部として取り込む過程で、複雑すぎる他人は記号に還元されていく。人は抽象化することによってのみ、他者を、自己を理解することが可能になる。
 脳裏に思い浮かべる他人は肉体を持っていない。友人、親、肉親、知り合い。その都度都合がいいように再構築された対象物(オブジェクト)である。
 人間にとって、ありのままであることは難しい。ありのままを見ることも難しい。なぜなら「意味」を創出する生き物こそが人間だからである。
 
 自慰が出来ないのは辛い。
 塞がった両手。折れた右手。これはきっととても皮肉で、しかしとても適切なしっぺ返しなのだ。そう思った。
 彼が失ってしまったのは、天嵩灯の「意味」であった。激発の中で、彼は灯から「姉」というラベルをむしり取った。あんたは他人だ。そう言った自分の口は、気が付けば自分を罰するものだった。
 
 灯と再会してからもう随分立つ。昔一緒に暮らしていた女と再び出会ったのは新聞配達の最中だった。一目見て、綺麗な女だと思った。冬の寒さに頬を上気させて、白い息を規則的に吐き出していた。様々な「意味」が形成される以前、いわば生の――現存在――としての彼女は、やはり美しかった。
 
 天嵩灯はもう姉では「ない」
 鬱陶しいレッテルは食いちぎってしまった。
 
 生殖行為に意味は邪道だ。それは相手を食いちぎる行為である。柔らかい腹を、甘い太股を、産毛の見える肩の肉を、噛み取って、咀嚼し、飲み下す。
 それは食事に似ている。原始の人間がそうしていたように、無粋な調味料は必要ない。あふれ出す血と体液を、肉と共に飲み下す。
 自涜の後、虚脱感がやってくる。それはたぶん再び張り付いた「意味」を厭う弱々しい抵抗なのだろう。
 今、明には「意味」から逃げ出す術はない。フルカラーの視界に、ぽっかりモノクロームの立像がある。ちぐはぐな世界。彼は健全ではない。彼はどこか病んでいて、病んでいながら普通の人々の中に暮らす羽目になったのである。
 
 つまり「愛」とはなにか。長らく理解できなかった疑問の答えを、明は今理解した。あるいは理解したつもりになった。愛とはつまり、無防備の性交、無防備の感興、無秩序な精神に、一つの名前を与えることなのだ。
 意味を作り出す生き物は、自らの生存する理由ともなった「意味付与」の行為を怠ることに抵抗を覚える。繁殖という生命体としての義務は、人間としての義務を反古にするのだから、頭の良い彼らはなんとか両者に折り合いをつけるしかない。
 
――この女は、あるいは、この男は、自分の「愛する」相手だ。
 
 脳内で叫ぶ。しかし欺瞞である。
 
 
 畳の上に敷いた布団はもう長く陽光を浴びていない。カーテンを閉め切ったアパートの一室、明は大きな身体を極限まで丸めて朝を待っていた。枕元に置いた腕時計が秒針を規則的に動かしている。
 音がする。カチカチと、ゼンマイが回る音だ。
 長く見つめすぎていたからか、父親譲りのそれは、いつしか形を失っていた。円形の金属に閉じこめられた三本の棒が、今にも透明な板を叩き割って彼の瞳に突き刺さる。頬に髪が当たると少し痒い。枕はプラスチックストローで膨らんで、羽毛とは違う厳しい感触を側頭部に与えるのだ。
 

 寝室には光がない。
 灰色になってしまった世界で、彼は独り。
 光について、考えていた。







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