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光について

第7回







 午前最後の授業。終了まであと二十分。
 自分のポケットを基点に唐突に室内を満たした無機質な電子音が、明の眠気を一瞬で吹き飛ばした。クラス中が一瞬で真空になる。皆が口を噤んで半笑いで犯人を捜す中、彼はあたふたと尻ポケットから携帯を引っぱり出す。
 
「すいません。今消しますから」
「おお。高江、携帯買ったのか。おまえが最後の砦だったのになぁ」

 四十代の盛り、気さくな性格とおもしろい授業で人気を博す世界史担当教師、金山義一は、授業に水を差されたというのに別段気にした風もなく、明にからかいの声を掛ける。
 鞄丸ごと忘れても、携帯だけは持ってくる。それが当たり前の近年の高校生で、携帯を持っていないというのはほとんど絶滅に瀕した指定保護種である。高江明はその貴重な一匹として、生徒だけではなく教師にも知られていた。
 
「あれ? ええっと…」
「蓋開けると電話のマークがついたボタンがあるだろ。それを押せ」
「いや、二つあって」

 教室が笑いに包まれる。巨躯を極限まで縮めて必死でボタンを操作する明の姿は妙な面白味を持っていた。
 
「おい坂下」
「あーい」

 苦笑まじりの教師に言われ、前の席に座る坂下が振り返ると明から携帯を受け取って、素早く着信音を黙らせた。
 
「メールじゃん。もっと鳴る時間短くしとけよ」
「そもそも授業中にならすな!」

 坂下のどこかずれた指摘に金山が茶々を入れる。再び生徒たちが笑った。
 
「すいません。ほんと。まだ買ったばっかりで」
「まぁ、次から気をつけろ」

 心の底から申し訳なさそうに謝る彼を金山は叱る気になれない。不貞不貞しい生徒になると、メールはおろか通話までし始めるのがいるくらいだ。そんなご時世、音が鳴ったくらいでそこまで謝られると、むしろ叱る方が悪い気すらしてくるのだ。 
 
「よーし。授業続けるぞ。次、宗教改革。宗教改革といえばルター。はい。そういう答えは中学生だ。他にもいるよな、なぁ、坂下?」
「え? おれ?」
「男坂下孝太郎。ここで一発がつんと正解をどうぞ!」
「わかんないっすよ。……えー、免罪符?」
「免罪符は物だ。今聞いてるのは人間」
「法王庁のアビニョン捕囚!」
「だから! 人間! おまえアビニョン捕囚好きだなぁ。この前のテストでも書いてたが…」
「カノッサの屈辱!」
「おまえ舐めてるのか? よーし。よーし。坂下は地獄の宗教裁判所謹製魔女狩りプリント全十五枚セットが欲しいみたいなんで…次熱田行ってみようか!」
「いらないって!」
「いやいやいや、恨むなら高江を恨め。そうだな、おまえでも金山式魔女狩りプリントやれば、一週間後には歴代教皇をそらで言えるようになるからな。心配するな」
「だから! 言えなくていい!」
「はい。坂下宿題追加、プリント十五枚、と」

 言って彼は手元の出席簿に何かを書く振りをする。それに合わせて本日三度目の大爆笑が訪れた。 
 
 坂下を標的に講談調の授業が続く中、机の引き出しスペースで明はメールを開いてみる。 
 音声通話の方は、買ったばかりだというのにひっきりなしに掛かってくるものだから、説明書を見る間もなく操作を覚えてしまったけれど、メールとなると話が別だ。1から9と#、*を適宜押して日本語を書くというのは、未経験者には大層な作業なのだ。
 女は電話好きだと一般的にはよく言われるが、まさかこれほどまでとは思わなかった。そんなことを思う。一度閉じた二つ折りの筐体を再び開けてみると、「アカリ メール」と表示されている。土曜に買ってからもう何通目か。受信フォルダを見ながら数えなければならないほどの数であることは確かだ。
 
 メニューの決定ボタンを押して開いてみた。
 
 お昼作ってきたのよ。一緒に食べましょう?
 
「今何している?」「電話してもいいかしら?」「携帯には慣れた?」「テトリスってやっぱり難しいわね…」メールとは、そんな中身のない内容を送りつけるために使うものだとは思いもしなかった。「っ」の文字の出し方が分からず、返事をさぼって説明書を読んでいれば、「ごめんなさい。忙しかったかしら」と来る。ワイドショーでやっていた、十分メールの返信が遅れただけで虐めにあったという女子高生の話はやはり本当なのだ。これはひょっとしたら、とんでもないものを持たされてしまったのではないか。心内に芽生えた不安の種を仏頂面で押しつぶす。
 返事をする気にもなれず蓋を閉じる。ズボンに仕舞おうとして裏面を見ると小さなシールが二枚貼られていた。小さすぎて表情の細かいニュアンスは分からないものの、確かに写真の中の二人は笑っていた。
 手続きの済んだ携帯を受け取った後、姉とその友人たちと一緒に入ったマクドナルドで姉に勝手に貼られてしまった一枚。明と灯のそれだ。もう一枚は姉の友人二人と撮った物。こちらは竹中真由子に半ば強引に貼られたものだった。
 彼は二枚のちっぽけな写真を見ながら小さく笑った。その時自分が何を考えていたのか覚えているからこそおかしい。それは暗い愉悦だ。彼は死人のことを――父親のことを――考えていた。

 
 
 

 
 
 

「灯さま灯さま、誰に?」

 机の下でメールを打っている灯に隣席の少女が囁きかける。
 
 さすがに三年の進級クラスともなれば授業中は静かだった。教壇では現国の女教師、水谷有希子が黒板に向かいチョークを走らせている。生徒たちのほうも、居眠りをしているものはほとんどいない。水谷は厳しい方ではないが、生意気盛りな高校生たちに舐められない程度には毅然とした態度をとることができる。
 ここ三年六組の生徒たちは今も覚えている。学期の初め、一部の生徒たちが悪のりをして授業中騒ぐのを止めなかったことがある。水谷は笑みを絶やさなかった。ただ、両の瞳だけが冷えていた。生徒の喧噪が最高潮に達したとき、彼女は教卓を平手で叩いた。破裂音が消えるまもなく、騒ぎの中心にいた一人の男子生徒のところへ歩み寄ると、胸ぐらを掴みあげて言った。
「あなた、今日は帰れないと思いなさい?」
 放課後哀れな少年は連れ去られ、次の日登校したときには、どこに出しても恥ずかしくない立派な水谷信者になっていた。「有希子先生いいな、マジで」などと、遠い目をして彼が呟くのを聞くたびに、クラスの他の生徒たちの背筋に寒気が走る。一体何があったのか、と。
 灯も水谷が嫌いではない。もともと現代国語という教科が好きだったこともあるが、なによりもわかりやすい授業が気に入っていた。だから、彼女の授業中にメールを打つという行為に他意はなかった。ただ今の彼女には小難しい評論を読みとるよりも優先順位の高い行動だっただけである。
  
「お友達」
「男?」
「ええ」
「うそっ!」

 少女の驚く声に有希子が黒板から振り返った。
 
「どうしたの?」
「なんでもないです」

 浮かした腰を下ろして少女は頭を下げた。それを見て再び教師は黒板に戻っていく。自分の態度が注目を集めたことを反省した彼女は、小声で話を続けた。
 
「マジでマジで? どんなの? 付き合ってるの?」

 ぐいと顔を突き出して尋ねる級友に、灯は自分の携帯の裏に貼られたプリクラを見せる。
 プリクラを携帯に貼るという習慣はもう遙か昔に終わった流行だった。今となってはもはやペアルックやペアリングと同じ、「ダサい」カテゴリーに入る。だから、そのプリクラを見せられた少女には、「あの」灯がそのような行動をとること自体が驚きだったのだろう。渡された携帯をまじまじと見つめながら沸き立つ好奇心を抑えきれない。
 
「この人?」
「ええ。明っていうのよ」
「へえー、大学生?」

 小さな写真に映る男の顔はひどく大人びて見えた。積極的に誉める容姿ではない。造作も目立たない。もっとはっきり言ってしまえば、やぼったい、と表現することもできるような顔だった。ただ、のび放題の前髪の中に見える目元だけが、不思議なくらい経年の落ち着きを示して目立っている。

「いいえ。高校生よ」
「どこの子? 桂章?」

 県立栢の近くには私立の男子校がある。金持ちの子息が通う中堅の進学高、私立桂章高校は男子校ということもあり、自校の男子では飽き足らない女子生徒たちとのカップリングがよく成立するので有名だった。
 
「いいえ。うちの高校」
「うそ!!」

 今度の嬌声は先ほどのそれよりも一段オクターブが高かった。天嵩灯にカレシができるというのは、大した刺激のないこの高校においては結構なニュースである。
 誰と誰が「付き合って」る。そんな情報が一度明るみに出れば必ず話題になる思春期の少女たちにとって、良くも悪くも衆目を集める彼女の動向が話題になるのは火を見るよりも明かだった。
 
「さっきからどうしたの? 埴生さん」
「あー、すいません」

 水谷に窘められた少女、埴生京子は大急ぎで神妙な表情を作り答えた。その隣では、灯が机の中に隠した携帯の画面をじっと見つめている。
 
――返事、来ない…。

 返信の速度などついぞ気にしたこともない彼女だが、不思議なことに、弟のそれだけはひどく気になるのだ。
 
――もうすぐお昼だし。直接会いに行くんだから、別にいいわね。

 最近過敏すぎる感情の触角を宥めようとそんなことを考えていた。

 そしてチャイムが、昼休みの始まりを告げた。

 
 
 

 
 
 

 予想通り、今朝登校してから明は静と一言も言葉を交わしていない。挨拶をしようと近づいても顔を背けられ、声を掛ければ露骨に無視された。
 口の中で無尽蔵に分泌され続ける唾液を何度も飲み込む。手の平が汗ばんでいた。つまはじきの始まりはいつもこうだ。最初は一人。次は三人。三日目にはクラスの全員。そんな状況の推移を容易に察することができるだけに、普通に話しかけてきてくれた孝太郎に明は心底感謝した。
 しかし、今は小康状態なだけかもしれない。そう疑心暗鬼の心が囁く。居場所を確保するのは、簡単そうに見えて結構エネルギーを使う。通常自然に行うプロセスを意識して行おうとすると案外難しい。普段無意識の「立つ」という動作でも、頭で考えて動くのは困難だ。
 彼にとって、友人は「作る」ものであり、「できる」ものではない。小学校に入学した頃に歌わされた「友達百人できるかな」という歌は、全くの誤謬、あるいは悪意の賜物なのではないかと疑わざるを得ない。自然に「できた」友達は、自然に離れていく。「作った」友達は、離れていかないように「する」。
 静が何を怒っているのか正確なところは分からない。言葉だけを聞けば、彼女の崇拝する灯に変な虫――つまり明――が付くのを怒っている。だが、言葉をそのまま受け取るのは愚かな行為だ。彼自身、口にする言葉は他者に何らかの感情を生じせしめるトリガーとしての役割しか持たない。ならば他人もまた同じでないとどうして分かるだろう。
 静は何を「して欲しい」のか。あるいはただのむら気で、発作のようなものなのかもしれない。何かいらだつ出来事があって、八つ当たりの対象を探していたのかもしれない。だが、それならば後を引くことはないはずだ。
 考えてみると、有望な可能性は二つ。彼女は灯を本心から崇拝している。もしくは、彼女は自分――高江明――に好意を抱いている。
 できれば前者であって欲しい。心からそう思った。なにも静が嫌いなわけでもない。普通にしていれば気さくで明るい少女。ルックスも悪くない。だが、感情表現が少々分かり辛いのが難点だ。彼女のそれが読みとれなければ、「適切な」自分を「作る」こともできない。やってくるのは派手な破局だけ。
 彼は「本当の自分」などに興味がない。受け入れられることにも受け入れることにも興味がない。人間関係は常に努力によって成り立つ。無条件の受容など、家族でもない限り不可能だ。
――そして、彼にとってただ一人の家族は、既に鬼籍に入っているのだ。

 彼はこじれた関係を修復するために立ち上がった。同列の二つ前の席でじっとしている少女。動かぬ後ろ姿に声を掛ける。
 
「なぁ、熱田。ちょっといいか?」
「……」

 返事はない。微動だにしない背中。セーラー服の大きなカラーから伸びたうなじ。
 
「ちょっと聞いてくれよ。なんか誤解あるっぽい。天嵩先輩の…」
「話しかけないでくれない?」
「本当に、理由があるんだ。おれは別に…あの人とはなんの関係もない…」
「別にあんたと先輩の話とかどうでもいいし。あんたの声聞くだけでもムカツクんだけど」

 静は一向に振り向こうとしなかった。ひどく冷たい声が明の耳朶をきつく抓りあげた。

――面倒くさいやつだな…。

 こういう事がある度に、どこか山奥に隠棲したいという願望が膨らんでいく。ロビンソン・クルーソーになりたい。兼好法師になりたい。どちらも望まずして落ちた孤独の境遇だが、彼にとっては垂涎のものだった。
 高校を出たら田舎へ行こう。数キロ歩かなければ隣家もないような、完全な山奥だ。唇を強く噛んで思いを新たにする。

 だが、さしあたってはもう少し努力してみなければならない。高校生活は後一年以上ある。出来ることなら平穏に暮らしたかった。
 明は彼女の机の前に立った。今この女はサディスティックな快感を感じているのだろうか。人より上位に立つのは気持ちいい。だからその立場を手放したくない。自分はいつまでも「謝る」タイプで、「開き直る」クチではない。そう思われているのか。ならば彼女のとりつく島もない態度にはリスクがない。高江明は、彼女との仲直りを諦めることがないのだから。
 
「なあ」

 そう声を掛けつつ彼女の机にそっと触れる。しかし、鋭い仕草で振り払われた。
 
「視界から消えて」

 二人の会話は周囲の耳目を集めていた。言い争う口調はじゃれあいとは明らかに違う。声の質が違うのだ。
 
 だが、注目の理由はそれだけではなかった。
 
「明」

 背後から呼ばれ、振り返る。
 そこには、弁当が入った袋を左手に提げた女が立っていた。

 
 
 

 
 
 

 友人の吉住紗綾が朝一番で教えてくれた目撃談は、熱田静の心を予想外に強く揺さぶっていた。

「高江くん、天嵩さんと付き合ってるみたい」

 出会い頭にそう言われたときには、特に驚くこともなかった。現に自分自身、灯に頬を張られているくらいなのだ。腫れは週末の二日間で完全に引いたが、受けた衝撃はますます彼女を悩ませる。
 
「そうなん?」
「うん。駅前で二人で歩いてたよ。あれは驚いたな」
「へえ、いつ?」
「先週の土曜。わたしは統介と遊んでたんだけど、もう見つけたときには驚いて、思わず尾行しようかと」

 吉住紗綾は赤根統介という少年と付き合っている。二人は幼なじみの間柄で、一七にしてほとんど熟年カップルのような雰囲気を醸し出していた。静には、二年生でも有名な「可愛い」紗綾がなぜあんな冴えないやせっぽちと付き合っているのか不思議でならない。いまだ恋のメカニズムを知らないその身には、不釣り合いは奇異な現象でしかなかった。
 しかしまた、仲良しグループの数人で紗綾の家に泊まりに行った時、深夜お定まりの恋愛話の最中に見せた彼女の幸せそうな笑顔を見て、そういうこともあるのかと一応の納得はしている。
 紗綾によると、赤根は意外にも「やるときはやる」男なのだという。喧嘩をすれば女子にも負けそうな体格をしていても、自分のためなら腹を括ってくれるのだと、彼女はのろけた。中学生の頃のいろいろな思い出話が次から次へと湧いてくる様を、静は呆然と眺めていた。それは確かに恋だった。彼女の湯上がりでうっすら紅がかった頬は誇りに輝いていた。
 
 静には、そんな姿が羨ましかった。
 
 背後に明の声を聞きながら、彼女は思い返す。
 高江明は思い通りにならない。自分は紗綾のような表情を手に入れることはできないだろう。そう思うとなぜか無性に腹が立った。
 週末の二日間、腫れた頬を冷やしながらいろいろなことを夢想していたのだ。月曜にはおそらく高江が謝ってくるだろう。もったいぶってさんざん焦らしたら許してやろう。仲直りの記念にどこかに遊びに行ってもいい。どうせ先輩と明とでは釣り合いがとれやしないのだ。先輩はきっと明に飽きて、そのうち離れていくはず。最近読んだ少女漫画の筋そのままの空想は誰にも言えない幼い愉悦だが、生意気そうな容姿に反して彼女はそれを好んでいた。
 
 それなのに。この苛立ちはなんなのか。静がベッドに寝転がりながら子供っぽい妄想に浸っているとき、この男と先輩は楽しく遊んでいたという。惨めさを自覚してしまえば、もう止まらない。完全に八つ当たりと分かっていても、明にひどい言葉を投げつけることでしか凝りは解消できない。
 
――あたしは高江とか、どうでもいい。

 テープに吹き込んでいたならばもう擦り切れてしまう。脳内で繰り返し再生した呪文を再び唱える。
 
「視界から消えて」

 自分の口から出た言葉のはずなのに、どこか映画の登場人物がしゃべっているように思える。前髪を垂らして目を覆う。男の顔さえも見たくない。
 
「明」

 誰かが明を呼んでいる。よく知った声だ。確かに彼女は憧れていた。テレビに出てくる女優よりも身近な、しかし、友人とは言えない距離を持った女。そして今、彼女はその女と敵対している。
 
「その子とお話するのは止めなさい」

 一片の熱もない。
 言葉で刃物が作れれば、きっとこんな形をしているのだろう。
 だから、静が激発して立ち上がるのは、きっと胸に刺さった鋭いナイフのせいだった。









 人間にはなぜ、やっかいな回路――意志――があるのだろう。明がいつも頭を悩ませるのは、つまりこの事実である。本能のままに生きる動物には複雑な諍いはない。腹が減れば食う。子孫繁栄のために生殖行動をして、時期が来れば逍遙として死に向かう。彼らにはいわゆる人間の栄光である文明は作り得ないが、その代償として素晴らしい平穏を手に入れた。
 きっと自分は、世界史でいうところの「ストア学派」の思想に共感を抱いている。彼は教師が授業の幕間に語った色々な哲学者の逸話を思い出す。世界の支配者アレクサンドロスに「なにかしてほしいことはないか?」と尋ねられたある男は「そこをどいてくれ。光が遮られる」と答えたという。もし自分が彼と同じ立場に置かれたとして、そう答えられたらどんなにかいいことだろう。

 いがみ合う二人の女を目前にして、明はとりとめもなくそんなことを考えていた。だが、それは事実、決して手に入れることが出来ない果実を前に、その葡萄は酸味がきつすぎると言い放ったイソップ狐の心理に似ている。
 彼にも性欲はある。生き物である以上、避けて通れない機能だ。女の身体を前にして興奮することもあるし、自涜のなかに欲求を満たすこともある。
 まだ擬態下手な幼生体のカメレオンだったころ、仲良くなった女子に振られた。二人向かい合っても掛ける言葉は分からないし、取るべき行動も知らない。ただのおままごとだった。彼は満足していたが、女の方はそうでもなかったらしい。「付き合い」始めて一ヶ月。あっさりと別れを切り出された。後に彼女とその友人たちが話しているのを聞いたときのこと。女は言った。
「高江はさぁ、なんかこっちの顔色ずっと見てるんだよね。キモくない? あれはもう、人生の汚点」
 年代特有の衒いだったのかもしれない。なにか小難しいことを言ってみたかっただけなのかもしれない。だが、彼女の言葉は正鵠を射ていた。
 もっと自分を出して欲しかった。女は続けて言う。だが、彼には出せる「自分」などない。そう思いこんでいた。「自分」なる不定形のものを見せ合うことが恋愛ならば、自分には恋愛など不可能だ。もちろん、性欲を解消するのに恋愛などいらない。世の中には感情など必要としない発散の場が幾らでもある。
 性が売りに出されている。
 コウノトリが運ぶ、愛情の結晶としての子供。父親と母親が神聖な愛のもとに作り出す、聖なる結合の産物。子供だましの価値体系に罅が入ったとき、彼はようやく失望を埋め合わせることができた。隠棲するなら、里には「そういう場所」があるような、そんなところに隠れ住もう。自嘲混じりではあるものの、それは真面目な希望であった。
 
 
「先輩は関係なくないですか?」

 ゆっくりと静が立ち上がる。彼は二人の対決の邪魔にならないよう脇にそれて、物言わぬまま成り行きを見ていた。
 
「関係なくはないわ。明はわたしの大切な家族だもの」
「はぁ?」

 一見突拍子もない灯の言葉に、静は小馬鹿にした応答をする。
 
「訳わかんないんですけど!」
「いいわ。別に。あなたにこそ、『関係ない』もの。明に近寄らなければ、わたしはそれでいいの」

 教室にはかなりの人間が残っているが、誰も何も喋らない。息を潜めてこの意外な対決の行方を注視している。ことの流れを知らなければ、二人がなぜ口論しているのかさえ分からないだろう。
 美人は怒ると怖い。よく言われるその言葉はやはり事実だ。灯の顔は完璧な無表情。感情といえるものは、髪の一筋にも通っていない。窓際から見ると薄暗い教室の入り口に立ち、その白い肌だけが鈍く輝いている。薄い唇の中に踊る小さな舌。それは血を舐めて自らの赤を一層強調していた。
 
「なんか誤解してません? こっちのほうが高江につきまとわれてる…」
「そうなの? それなら、明? もうこの子とおつきあいするのは止めなさい」

 灯は最後まで言わせなかった。嘲弄すらない。
 
「だから! なんで先輩にそんなこと言う権利があるのかって!」
「あら。あなたは迷惑しているんでしょう?」
「それは!」

 そもそも会話すら成り立たない成り行きに、たまらず静は大声を上げる。
 
「あなた、少しうるさいわね」

 明に注がれていた視線をゆっくりと静に戻す。その目は口ほどに物を言う。躾の悪い犬がよく吠える。まさに灯はそう言っていた。
 
「二人とも落ち着いてくださいよ! そんなマジにならないで…」

 静の顔が一瞬にして真っ赤に染まったのを見て、明は漸く口を出した。暴力沙汰になるのは不味い。しかし、一度沸き上がった静は収まらない。灯には届きすらしない舌鋒の先を明に向けて怒鳴り散らす。
 
「高江っ!! なんなのこの女! 頭おかしいんじゃない?!」
「いや、ちょっと待とう。な。ほんとに落ち着いて、な」

 今にも灯に突っ込んで行きそうな彼女の行方を遮るように明は前に立つ。すると今度は灯の番だ。静を挑発する意図すらないらしく、至極落ち着いた口調で言い放った。
 
「明、いきましょう。お弁当作ってきたの。そんな子と話してたら休み時間終わっちゃうわよ」
「先輩もそういうこと言わないでくださいよ。ね、ほんと…おちつ」
「そこどけっ! 高江!!」

 灯に向かって首だけ振り向きながら窘めようとした瞬間、明の身体に衝撃が走った。
  
「分かった! 分かったから蹴るな! 熱田落ち着け。 いてっ!」

 さながら巨木のごとく立ちはだかる明の足に、静が渾身の蹴りを放つ。幾ら女性のそれとはいえ、臑にあたればかなり痛い。たまらずしゃがみ込んだ彼の背後から、今度は本当の怒声が飛んできた。
 
「明!! そこをどきなさいっ!!」

 
 
 

 
 
 

――こいつらは一体なにがしたいんだ…。

 蹴られた臑を抑えながら、同時に心に沸き上がる怒りも押さえつけなければならない。大切な学校生活のはずだった。彼は我慢に我慢を重ねて穏やかな時間を作ってきた。なぜこの二人は、それを路傍の石のように蹴り飛ばして省みないのだろう。
 
 誰にも口を利いてもらえずに、教科書をずたずたに破られて帰宅した日、彼は心に復讐を誓っていた。幼いながらも殺意すら抱いていた。息子の哀れな姿に、しかし父親は言った。
「怒ったら負けだぞ」
 今も耳の奥に残っている。あれは父親の生き方だった。我慢すること。不平を言わないこと。感情を露わに見せれば、そこにつけ込まれる。もの言わぬ海に向かい、ただ黙々と釣り糸を垂らし続けなければならない。それは哀れな父子に許されたただ一つの処世術であった。
 
 
 父に連れられて田舎に帰ったことがある。寒風吹きすさぶ漁港に面した小さな町だった。生まれて初めての旅行に興奮した彼には、町に充満するうらさびしい雰囲気すらも物珍しかった。
 早朝駅に降り立って、駅員もいない改札を抜けると小汚い商店街が見える。海水をたっぷり含んだ潮風にさらされて、トタンの看板は一枚の例外なく錆びていた。曇り空は深い黒と白の合間でうねり、今にも雨粒を遍く大地に叩きつけようと機を伺っていた。所々ひび割れたアスファルトの道を踏みしめて、身の回りの品を詰めたリュックサックの重みを小さい背中に感じながら、彼は父に手を引かれ歩いた。
 夏休み最後の一週間。なぜか肌寒かった。
 父子は人気の消えた商店街を抜けて、小道の奥にあるアパートにたどり着く。目的の部屋は、ドアのペンキも剥げていた。彼は覚えている。ようやく読めるようになった漢字。玄関の脇、明の背丈よりも少し高いところに書かれた表札の文字。『高江』 少し父親の字体に似ていたかもしれない。
 ベルを押すこと二回、ドアがゆっくり開き、小柄な老婆が顔を出した。小山のように見上げなければならない父親とは違う。背丈は自分とそう変わらなかった。
 
「勇次かい」
「母さん。ただいま。ちょうど仕事休みだったから、来たよ」
「そっちは明だね? 二人だけかい? 匡子さんと灯は後からくるのかね」
「ああ、二人はちょっと忙しくて。今回は二人で来た。ほら、先方の家に…さ」

 父親と老婆の言葉を聞きながら、彼は暗闇に浮かぶ部屋の中を見ている。老人特有の体臭は、頭に乗せられた節くれ立った手のひらからも感じることが出来る。この人が、「もう一人のおばあちゃん」なのだ。そう気が付いたのは、部屋に招じ入れられて少ししてから。
 
「あたしのことはいいんだよ。こんな汚いところに匡子さんをお呼びするわけにはいかないだろうが。あちらの家に失礼があったら…」
「はは。気にしすぎだよ。まぁ、今回は…ちょっと」
「構わないよ。あたしのことは。それよりおまえはどうだい? 銀行のお仕事はしっかりやってるのかね。人様のお金を扱うお仕事なんだよ。分かってるね。失礼があったら……」
 
 
 思えばあれが最初で最後に里帰りだった。直ぐに父親は事件を起こし、家族は離散し、祖母は死んだ。押し掛けてくるテレビのインタビュアに心身を痛めつけられて。
 滞在していた三日間、祖母は彼に優しく接した。母方の祖母は亡くなっていたから、「祖母」という存在自体が彼には新鮮だった。手をつないで海縁を歩いた。肌に絡みつく風を受けて、彼は空気には重量があることを初めて知った。
 祖母はあまり口を開かなかった。ただ、触れあう手のひらが彼に色々なことを教えてくれる。
 曲がった背筋は不思議だった。なぜ曲がっているのかが分からなかったからだ。理由を聞いてみると、彼女はひとしきり笑ってから答えた。「重たいものをたくさん背負ってきたからねぇ」
 祖母は力持ちだったのだ。そう思った。自分とそう背丈も変わらない、触れれば壊れてしまいそうな肢体にも、大きな力がある。ならば自分も、同じように力持ちになれるだろう。苦手な逆上がりも出来るようになる。そう思った。
 
 祖母が背負っていたものが、巨石や巨木の類ではないことを知ったのは、自分もまた同じ物を背負う羽目になってからだった。

 
 
 

 
 
 

 肉体的な衝突の最中、人間は獣に似ている。座り込んだ自分の前に立ち、静とにらみ合う姉の後ろ姿を見ながら彼はそんなことを考えた。事実、彼女たちは獣に近い。気に入らないものがあれば、回りのことを考えもせずに突っ走る。目的の物を手に入れられればそれでいいのか。それは大型の肉食獣に似ている。食物連鎖の頂点に位置づけられた、幸せな生き物。世界に祝福されている。ライオンも虎も、周囲のことなど気にしない。ただ好きなように生きている。
 翻って、彼はネズミだった。生まれて数ヶ月の子猫にも目を付けられたら身の破滅。神が猫に与えた素晴らしい爪で散々いたぶられて、あげくに食われてしまう。身を護るのは細心の注意しかない。猫の髭一本に至るまで、動向を把握する必要がある。
 
 犯罪者の子供というのは、犯罪自体によって聖別された存在ではない。ただその希少性によってのみ聖化された存在でありうる。テレビタレントが街を歩いているのを見つければ、すかさず携帯カメラを向け、サインをねだる。同様に、テレビにまで出た犯罪者というのは負のセレブリティである。級友たちは横領だの脱税など、そんなことに露ほどの興味も示さないだろう。だが、全国ネットのテレビに出た、といえば反応は違う。あるいは、笑い話のネタになって終わるかもしれない。だが、もしそうならなかったら…。
 それ自体が悪意を生むのではない。悪意を持った人間が弾劾の材料に使うのだ。だから彼は「自分に対する悪意」を育てないよう腐心してきた。「いい人」のレッテルはどんな犠牲を払っても維持しなければならない。そう思ってきた。
 だが、そこまでして集団に溶け込む必要があるだろうか。そもそも高校生活を続けていく必要があるだろうか。中学には通った。会話の相手が居なくても通った。だが、それは父親が居たからだ。父は彼に「見返す」ことを望んでいた。まともな会社に入り、いい給料を貰い、幸せな家庭を築くことを望んでいたはずだ。あの漁村に後ろ足で砂を掛けて出てきた父親だからこそ、彼にもまた同じ事をするよう願っていただろう。はっきりと言われたことはないが、彼はそう理解してきた。
 だが、父は死んだ。
 どこか山奥で野菜でも育てて暮らせればそれに越したことはない。やりたいことがあるわけでもないのだ。どうせ一生独りならば、誰に迷惑を掛けることもない。
 
 繰り広げられる茶番劇の背後で、彼の脳裏に埋め込まれていた将来像の種が、ゆっくりと芽を出した。
 実際のところ、短絡的な少年の思いこみに過ぎない。一七年そこそこの経験など、人生の一般法則を見いだすには小さすぎる。普通の大人が聞けば、鼻で笑って終わるだろう。思春期特有の青臭い思想だ。
 だが、彼の幼い思いを正してくれる人間はもう周囲に居なかった。高江明に不幸があるとすれば、たぶんその一事に尽きるのだ。
 
 
「おまえらうるせえよ。黙れ!!」

 なおも怒声飛び交う教室に、もう一つの叫びが弾けた。
 
「この人とおれは姉弟なんだよ。血が繋がってる。いいか? これで疑問がとけただろ? これから変な言いがかりつけんな」

 立ち上がった彼は、静に歩み寄りそう怒鳴った。そして今度は灯に向き直る。
 
「そしておれは、家族とか姉弟とかまっぴらだ! 吐き気がする。家族ごっこは自分とこでやれ! いいか? 吐き気がする! いいか? おれの家族は父さんだけだ。そもそもあんたとは名字からして違うだろうが。おれは高江で、あんたは天嵩だよな? おれは高江勇次の息子で」
「明、それは!」
「黙って聞け! いいか? おれは高江勇次の息子で、あんたはあんたんとこの母親の娘だろ? それ以外何がある? これ以上つきまとうな」

 冷静さをいまだ保つ精神の一部が必死で停止信号を送り続ける。しかしもう彼は止まらなかった。姉の、白を通り越して血管の赤が透けて見える顔も、決壊寸前の涙腺を抑える目元も、明の発作にも似たソレを止めてはくれなかった。
 父親の葬式の日、顔も出さなかったこの女。自分が苦しいとき、何一つしなかったこの女。ようやく落ち着いたと思ったら、理解不能の感傷でそれを崩そうとするこの女。尽きることなく湧いてくる罵声は、灯よりもむしろ、明自身を貶めるものだったのかもしれない。
 
 心の奥深く、気を抜けばどこにあるのかも忘れてしまうほど巧妙に隠された倉の中、厳重に閉じこめた思いに気が付かない。

――それは妬みだ。

 彼は事実、姉を恨んでいた。
 つまはじきにされることもなく、幸せそうな顔をしている。友達は「百人できて」誰からもちやほやされる。早朝眠気を圧して新聞を配る必要もなければ、仕事の父を待ちながら独りぼっちでテレビを見ることもない。弁護士を寄越した切り自分に興味を向けない母親は、きっと灯を可愛がっているのだろう。自分は犯罪者の息子で、彼女は「可愛い我が子」なのだ。
 なぜ母親と一緒に暮らさないのか、なぜ自分には母親が居ないのかと聞いた自分に、父は「全て偶然だ」と言った。人は「理由なく」生まれ、「理由なく」境遇にからめ取られるのだ、と。小学生の時には分からなかった父の言葉が、今はよく分かる。
 
――結局のところ、この世は不公平に出来ている。
 
 
 
「もううんざりだ。くそっ!!」

 彼はポケットから無理矢理携帯を引きずり出す。
 そして力の限り、教室の隅に置かれたゴミ箱に叩き込んだ。
 中に詰め込まれた紙屑がクッションになって、大した音もしなかった。
 
「……吐き気がする」

 きつく目を瞑る。もう無理だ。喉元を締め付ける後悔の首輪が、震え立つ胃を抑えられない。
 
 全部たたき壊してやった。
 ただ自分の卑小さだけが残った。
 ひどく滑稽だ。独りで訳も分からずいきり立っている。
 自分には、父親の雄々しさも、祖母の逞しさもない。
 不公平に黙って耐える覚悟も、受け入れる強さもない。
 
 虚脱だけを引きずって、彼は教室を出た。
 戻るつもりはもうなかった。

 
 
 

 
 
 

 昔誰かが言った言葉を思い出した。
 
 ”あらゆる悪事を誇る犯罪者でも、ただ一つだけ恥じて口にしない感情がある。”
 
 ――それは嫉妬だ。







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