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光について

第6回







「まだ起きとるのか。匡子」
 
 照明が落ちて家人のいない居間は、本来の機能を失ってひどく寂しげに見える。老いて眠りの浅い征は、飲み物を取りにやってきたその居間で、ソファに深く身体を埋めた娘を見つける。
 天嵩征の長女、天嵩匡子は、旧姓を高江といった。灯と明の母親である。
 彼女は酒を飲んでいるわけでもないし、テレビを見ているわけでもない。家中寝静まって静寂の落ちたリビングで一人、腕を組んだまま座っていた。
 
「父さんこそ。どうしたのよ」
「眠れなくてな。おまえもか」
「いいえ。そういうわけじゃないわ。ただちょっと疲れたのよ」
 
 気怠げな口ぶりの娘を尻目に、彼は冷蔵庫から愛飲するビールの缶を取り出す。
 
「明のことか?」
「色々よ。……ねえ父さん。わたしにも頂戴」
 
 娘の催促に応じてもう一本缶を抜く。そして彼女の座るソファの前の大きなテーブルに置き、自分も対面に座った。
 征は喋らない。皺の寄った顎の肉に手を触れて、うつむき顔の匡子をじっと眺めている。一方女の方は、自分が見られていることを知ってか知らずか、こちらも黙ったままビールのプルタブを開けた。
 
「おまえは母親だ。訳の分からん感傷は捨てろ」
 
 唐突に征が口を開いた。匡子は無言のまま顔を上げ、じっと父親を見つめるのみ。目尻によった消えない皺の萌芽が、彼女に自分の年齢を思い知らせてくれる。それは残酷でありながら、同時に救いでもあり得るような自然現象である。若さに任せた過ちは、時間の経過と共に薄れ擦切れ、最後には赦される。
 
「明はどんな子に育っているかしら」
「会えば分かる」
「そうね」
 
 征にも負い目がある。娘は一生添い遂げるはずだった男と引き離されたのだ。幸せでありうるはずの家庭も崩れ、手中の珠ともいうべき息子とも分かたれた。その原因が自分にあると分かっているからこそ、ここ十年間、彼は娘のしたいようにさせておいた。しかしそれも限界に近づいている。
 征には息子が居ない。彼が死んだ妻との間に儲けたのは二人の娘だけ。しかしそれを残念には思わない。古い名家にありがちな、男系嫡子を尊ぶ風潮とは無縁だった。だから老人が唯一の男子を――明を求めるとすれば、それは性差とは全く異なった価値基準に置いて為されるものである。
 
「明日のこと、灯はずいぶん楽しみにしているみたい」
「書いてやったのか? 委任状」
「ええ。不味かった?」
「いや」
 
 家に帰り着くとすぐに、灯は母親に携帯電話の委任状を書いてくれるように頼んだ。特に断る理由も見いだせない彼女は二三質問しただけですぐに書類の記入欄を埋めてやった。途中印鑑を探すのに手間取り、灯が家中の戸棚をひっくり返す様を眺めながら、いよいよ自分の心にケリを付けるべきだと考えていた。
 本当は、勇次が死んだときに終わらせるべきだった。誰に教えられたわけでもない。しかし分かっている。今この時期が最後のチャンスで、それを逃してしまえば、息子との関係は一生修復できないだろう。
 
「だからね。灯に言ったのよ。一度連れてきなさい、って」
「そう簡単に来るとは思えないがね。おまえがいいなら、わたしが会いに行っても良い」
「父さんが?」
「ああ。明はわたしの孫だ。おまえの息子であると同時に。高江の家には親戚もいない。わたしやおまえや、この家の人間を除けば、あれはたった一人だぞ」
「……そうね」
 
 深いオレンジの弱い照明だけが彼女の頬を照らしている。化粧をしていないからか、うっすら浮かんだ染みも露わに、匡子の肌は闇に浮かぶ。征の落ちくぼんだ瞳が、娘のそれを離さず捉えていた。
 
「わたしも薄々感づいとる。おまえが話そうとせんから、聞きもしない。だが、あれには関係のない話だ。わたしは明のためなら……」
 
 その後を続ける気にはなれない。娘の瞳は酷薄な色に塗りつぶされていて、実際には続けることができなかったのだ。
 
「父さんは、いつからそんなに家族が大切になったの?」
「光子が死んだときからだ。おまえの母さんが。それまでは、家族を省みることなんてなかったよ。確かにおまえの言うとおり」
「そうよね。ただ怖かっただけ。昔なら、わたしがこんなこと言った瞬間殴り飛ばしていたでしょ」
「ああ」
「親らしいこともしなかったわね。父さんは勝手に結婚相手を決めてきた。そして勝手に奪ったのよ」
「そうだ」
「それを…それを…偉そうに!」
 
 一口酒を飲み下す。征は思い出す。
 彼の勤めていた東光銀行には、はっきりと書類で示されていたわけではないが、幹部候補生になりうる新入社員を入社三年目で役員秘書の見習いとして配置する慣習がある。
 創業当時から続く幹部教育の風習に乗っ取って彼の元に配属されてきたのが、高江勇次であった。昭和の初めから東光銀行を支え、今では創業者一族よりも強い力を持つ天嵩家のいわば代表として、その名に恥じない業績を上げ続けてきた生粋のエリートである征は、役員室にやってきた長身の男を最初嫌っていたかもしれない。
 古い記憶を呼び起こすとき、いつも感じる何ともいえない苦みをかみ砕く。
 生来の激しい気性と竹を割るような明快な言動を好む征には、背だけがひょろりと高く、いつも薄い笑みを浮かべて立つ若者になんら親近感を覚えなかった。頼りないのっぽ。それが第一印象である。
 しかし、一年のうちに、彼は「頼りないのっぽ」に対する見方を徐々に、だが確実に変えていった。高江勇次は自分の意見を言うことはほとんどないが、言いつけられた仕事は淡々と完璧にこなす。社内では癇癪持ちで有名な征の要求に完璧に応えてみせたのだ。彼の全ての行動を先読みする洞察力と、自分の分を知ることができる勇気を征は愛した。他の研修生がとかく派手な仕事を求めてお茶くみの真似事を厭う中で、彼はただ黙々と割り振られた役割を演じきった。「秘書向きの男」そんな評判を、一年彼を間近で見てきた征は笑った。退屈な数値だけの書類を徹夜で整理しながら、その数字の意味を必死で考え、学ぼうとする姿。征のどんな言葉も逃さず、そこから一片の有益な情報でも盗みだそうとする「意地汚さ」を、征は愛した。
「きみは熱心だな。普通最近の若いのはもう少しスマートなのを好むと思ってたんだが」
そう戯れに話しかけた征に、いつもと変わらぬ微笑を浮かべたまま勇次は答えた。
「昔から勉強できる時間は貴重でしたので、子供の頃と比べれば、暇がありすぎて驚くくらいです」
 
 後に征の元を離れ海外事業部で巨大な利益を上げた彼を、長女の婿にと考え始めた征は、その経歴を詳しく調べあげた。
 
 高江勇次は北陸の小さな漁村の漁師の元に生まれた。父親は彼が子供の頃に酒と博打で身を持ち崩して船を売った。母親が食堂と付近の缶詰工場を梯子しながら家計を支えていた。
 勇次が十歳のとき、父親は死んだ。飲み屋から帰る途中に酔って海に飛び込み、呆気なく人生に幕を引いた。溺死である。
 地元の人間は幼い勇次と母親を哀れんだが、哀れみは見下しと同意であった。彼は地元の中学を卒業し、地元で一番の進学校に進む。学業の合間にアルバイトをし、家計を助けながら、これも首位で高校を卒業し、東京の大学に進んだ。奨学金を受けて一人暮らしの資金とする一方で、寝る間もないほどアルバイトを入れ、そのほとんどを母親に送金していたらしい。
 
 青年の経歴をあらかた知ったとき、征は、勇次の類い希なねばり強さ、落ち着き、そして先読みの能力がどこから来たものなのかを理解した。周囲に隙を見せず、「落伍者」の汚名をすりぬけ、他人の顔色を読み、常に向上しようと望む。それは征の中にはない美徳であったのかもしれない。
 溢れかえる金があり、幼児から最高の教育を受け、他者を自分に合わせることを当たり前としてきた男が、この泥臭い「秘書向きの」男を受け入れることができたのは、だからきっと、社会に出て過ごした長い年月のお陰だろう。
 
 家庭では専制君主として君臨してきた征は、娘婿をこの男に決めた。勇次の経歴と顔写真を持って帰宅した彼は娘を呼びだし、一言告げた。
 
「匡子。これがおまえの婿だ」
 
 
 回想の海に引きずり込まれ、無言でビールを飲み下す彼を、匡子の一言が現実に引き戻した。
 
「父さんはあれでしょう。勇次さんがお気に入りだったものね」
「ああ。気に入っていたな」
「わたしのほうがおまけだった。あの人を引き込むための…」
「そうだ」
「わたしは実の娘よ!」
 
 一瞬語気がはじける。身を乗り出した匡子の両手は、今にもテーブルに降り下ろされんばかりに伸びきっていた。だが、そんな娘の動きに征は身じろぎ一つせず、厳然と言い返した。
 
「それがどうした?」

 
 
 
 
 
 

 銀色のブレスが、きらきらと陽光を受けて輝いている。腕時計の針は十二時を二分過ぎて、時計台の前に立つ彼女は浮き足立つ心を抑えようと苦心する。濃いグリーンのワンピースから伸びた真っ白な二本の足。白いヒールサンダルへと吸い込まれていく脹ら脛の輪郭が、陰となって地面に伸びていた。
 ここに立って待つこと、もう十分は経っている。一度男二人連れに声を掛けられたが、とりつく島もない灯の反応を見て諦めたのか、早々に立ち去ってしまった。見知らぬ男たちに声を掛けられるのは嫌な出来事だったものの、日の光を受けて柔らかく揺れるそよ風が彼女を癒やす。右手に提げたバッグの中には、昨夜母親に書いて貰った委任状が入っていた。
 
(明とお揃い)
 
 きっと不案内の彼のことだから、機種もわたしが決めてしまおう。そんなことを考えて忍び笑いを漏らす様も、装いの美しさに紛れて不振な感じを周囲に与えることはない。美術の教科書で見たボッティチェリの絵画のように、淡色の裳裾を幾重にもひらめかせた女神のように灯は直立していた。
 それは彼女の容姿が与える印象ではないだろう。ただ季節が――一年の中で最も素晴らしい春の日が、そんなイマージュを少女に付与していたのである。
 
「すいません。ちょっと遅かったですか?」
 
 声の主は、駅をぐるりと囲むロータリー脇の歩道からやってきた。掠れた青のジーンズに白い長袖シャツを着込んで、上から二つボタンを開けている。肩胛骨から伸びた首筋をぼさぼさに伸びた髪の襟足がさながら毛皮のように囲んでいた。
 
「そんなことないわよ。身体は大丈夫?」
「大丈夫ですよ。それにしても…今日は暑いですね」
 
 手で拭った首もとに汗の破片が光る。息の上がった青年の様子に、ひょっとしたら走ってきたのかもしれないと思い立って、灯は少しうれしくなった。
 彼女は幸福だ。一秒先、十分先、一時間先、この後二人が過ごす時間を心待ちにしている。
 強烈な感情は色を持っている。だが、強烈でなくとも、ゆっくりと浸食する感情もある。胸の奥底からわき上がり心臓の周りを一分の隙もなく取り囲む。そんな感情は色を持たないが、代わりに味を持っている。
 
「どこ行きます?」
「どこでもいいわ。どこのお店でも、値段はほとんど変わらないから」
「おれ、あんまりこの辺の店には来ないんで…」
「じゃあ、わたしについてきて? 時間が大丈夫なら」
「了解です」
 
 二人はのんびりと歩き出した。明の隣に立つと、彼女の頭頂は彼の肩を少し越えたくらいまでしかない。一歩の歩幅まで違う。普通の速度で歩けばすぐに置いて行かれてしまう。だが、明の歩調はゆっくりしていて、灯の歩速でも十分に付いて行くことができた。
 
「最近の携帯ってカメラ付いてるんですよね?」
「そうよ。撮った写真を送ることだってできるんだから。すごいでしょう?」
 
 我がことのように自慢する灯に彼は相づちを打つ。
 
「そういう小さい機械の進歩って本当に早いな。それにしても…カメラですか」
「ええ。わたしも時々お友達と撮るけど、最新のやつは凄いの」
「写真かぁ」
「明は写真嫌い?」
 
 彼に何かを尋ねるとき、彼女の口ぶりは平生に比して無防備になる。幼子が無邪気な瞳を向けて、空は何故青いのか、と尋ねるように、灯の瞳も大きく見開かれている。
 
――これで猫被ってるんなら大したもんだ。
 
 十八にもなってこれほどまでに他意のない視線を向けることができる人間がいるとは、明には到底信じられない。どこか山奥に監禁されて、人と触れあうこともなく過ごした過去でもあるならばいざ知らず、仮にも人間社会の中で長い年月を過ごした人間だ。それがどうやったらこんな表情を作り出せるのか。無垢の仮面の下でなにを考えているのか、覗き込んでみたいと心底思う。
 
「撮る機会がなくて。修学旅行とかそういう時に記念写真を撮るくらいです」
 
 中学校の修学旅行では、係の者が撮影した写真のリストが帰ってから回ってきた。焼き増しが欲しい者は、リストの脇に欲しい枚数を書いて金を払うと希望した写真が渡される仕組みになっている。友人達が賑やかに騒ぎながら気に入った写真を選んでいるさなか、明は一人興味なさげに席に座っていた。
 明は写真が好きではない。光沢紙に刻印された自分の顔には生気がないように思われるからだ。彼の顔面からはいつも疲れがにじみ出ていて、瞳は頬骨の奥に押し込まれていた。浮かべた笑みは常に薄く、まるで石膏の仮面のように、寸分違わぬ歪みを形作っている。
 それはほとんど、デスマスクに似ている。
 
「じゃあ、携帯を買った記念に撮りましょう! ね?」
「それはいいですけど……先輩は写真好きなんですか?」
「わたしは、そうね、好きだわ。だって、写真に残しておけば、そこに居なかった人にも見せられるもの」
「見せてどうするんです?」
 
 つまらない答えだ。彼は心内でひとりごちた。鼻白んだ空気を巧妙に隠したはずなのに、気が付けば語気に反映されてしまったかもしれない。彼はさりげない素振りで姉の顔を覗き込む。しかし予想に反して、少女の顔に張り付いていたのは、ある種の強い意志――悲壮ささえ感じさせる張りつめた空気だった。
 
「わたしが、見せたいの。もう居ないその時のわたしを、その時のわたしを知らない人に」
 
 灯の言葉は普段音楽のように流れる。角という角が研磨されて、自由に空間を泳いでいく。だが、今、灯の語気は硬く、継ぐ息の撥音が流れを断ち切っていた。
 
「そういうのっていいと思いますよ」
 
 彼は努めて明るく答えた。返す言葉は頭のどこを探しても浮かんでこなかった。
 
 口を閉じて無言で歩く。駅前からアーケード街に入り、人の群れをすり抜けて進む。車が二台通れば窮屈な路地の両脇には、隙間なく店が軒を連ねていた。眼鏡屋、本屋、CD屋、服屋に菓子店、ファストフードのテラス。そのどれにも数人群がって、春の陽気に釣られたままそぞろ歩きは続く。

 五分も歩いただろうか。駅の中心部から遠ざかるにつれて人影もまばらになりつつある。
 
 そんな過疎と密集の丁度狭間に、二人の姉弟は最初の電気屋を見つけた。









「携帯持ち始めたのっていつ頃ですか?」
「たしか高校に入学したときだったと思うわ。わたしはあまり興味がなかったんだけど、お母さんに持たされたの」
 
 店頭デモンストレーション用のゲーム機に群がる子供達を避けて入り口を抜けると、携帯売り場が見えてくる。各電話会社のブース毎に派手な幟が立っていて、それぞれに担当店員がついている。丁度新機種が出始めたばかり、休日の午後は客入りもよく、どの陳列棚の前にも人だかりができていた。
 二人は小さな人垣を掻き分けてお目当ての品を探すのだが、携帯を持ったことのない明には希望の機種もキャリアもないものだから、最初はただ漫然と展示見本を手に取ってみるだけ。
 
「全部折りたたみ式なんですね。こう、真っ直ぐなやつはもうないのか…」
 
 言いかけた明は、展示品の中にひときわ目立つ薄いストレート型のソレを見つけた。オレンジとシルバーの配色に目を引かれたのか、珍しいストレートに釣られたのか、ふらふらとショーケースに歩いていく。
 
「ね、ねえ明、それはゲームできないのよ。テトリスできないよ?」
「そうなんですか? でもこれ、カッコイイじゃないですか」
「そうかしら。確かにデザインは綺麗だとは思うけど……でもね、ほら、高いじゃない? 今ならタダのやつだってあるんだから。これなんてほら、タダ」
 
 言うなり彼女は明の袖を引きずって隣の棚に移動する。指さす先にあったのは、彼女の持っているのと同じ折りたたみのそれだった。
 
「先輩の持ってるやつ?」
「ええ。使い勝手もいいのよ。メールも直ぐに送れるし」
「メールかぁ。ちょっと憧れてたんですよ。携帯でメール。なんかサイバーですよね」
 
 強引な軌道修正の末になんとか彼を自分の意図した機種に誘導することに成功した灯だが、唐突すぎたかと不安になって彼の顔を盗み見る。
 
――子供みたい。
 
 二つ折りの筐体を閉じては開けて、サイドボタンや背面液晶を弄るのに熱中している明を見ていると、やはり男の子なのだと彼女は思う。男が皆機械いじりを好むわけではない。もちろん灯にも分かっていたけれど、人口に膾炙したイメージと似通った行動を見つければ、やはり固定観念に引かれてしまう。
 灯は嬉しかったのだ。今彼女の目の前でモックアップを触る少年は、どれほど容姿を変えても、彼女が昔共に暮らした弟なのだ。
 プラモデルの部品を上手く接着できずに何度も試行錯誤を繰り返す幼い弟を、からかい混じりに手助けしてやることもよくあった。不器用な手つきで二つの部品を合わせるが、接着面がずれてやり直し。
 美術では、手を巧みに描くことで人物の感情までも表現できるというが、それはやはり正しいのだ。彼の手はいろいろなことを彼女に語りかけているように思われた。
 
 しばらくすると、身体を寄せ合い見本を弄り回す二人に、店員とおぼしき女性が声を掛けてきた。
 
「そちら、今売れてますね」
 
 気が付いて、明がモックアップから顔を上げる。
 
「そうなんですか?」
「はい。ご新規でしたら無料になっております」
「へぇ。本当にただなのか…」
 
『新規無料』と赤色で大書された値札をいまいち信用できなかった彼だが、店員の言葉を聞いて安心する。
 
「ええっと…じゃあ、あれとか幾らなんですか?」
 
 灯に引き離されたものの、ストレート型の方にも多少の未練があるらしく、ちらりと振り返って指さす。
 
「あちらは…ご新規ですと、一万六千八百円になります」
 
 ポケットからメモを取り出して値段を確かめつつ答えた店員の言葉が終わらないうちに、灯が話しに加わる。
 
「ね、こっちがお薦め。二つ折りは画面も広いのよ。それにテトリスだってできるし。わたしともお揃いだから、使い方も教えてあげられるし」
 
 突然会話に割って入ってきた灯に、店員は慌てることもなく上手に話を合わせていく。
 
「あ、お揃いってことは、カノジョさんですかぁ? お客さんラブラブじゃないですか」
 
 二十代前半とおぼしき女性店員の口調がいきなり砕けたものに変わった。渋る男に最後の決断を促すのは常に女性の意見だ。カップルで連れ立ってやってきた客の場合、買わない片方を乗せてしまえば、あとは話が早い。店員の格好をしているが、キャリアから派遣されたヘルパーである彼女にとって、機種の値段など関係ない。回線契約を取れれば勝ちである。
 数年の経験から、灯たちを大学生のカップルだろうとあたりをつけた彼女は、素早く畳みかけに掛かる。
 
「やっぱりカノジョさんとお揃いっていいですよ。それに、こちらでしたら同キャリアになりますから、ショートメールもタダですし、絵文字だって全部使えますからねー。あと、うちでは今、ハートフル割引っていうのをやっていまして、よく掛ける電話番号を五件まで登録していただくと……」
 
 明は敢えて店員の誤解を正そうとは思わない。見ず知らずの人間に自分たちの関係を進んで明かしたいわけでもない。店員の女と話が弾む灯の様を見れば、彼女も気にしていないのだろう。
 正直なところ、機種などどうでもよかった。もっと突き詰めてしまえば、携帯電話自体あってもなくても良い。ここに来たのだって、昨日の看病のお礼という意味合いが強いのだから、ムキになって姉の意見をはね除ける気にもならないのだ。
 
「じゃあ、これにします。色は…何がいいかな…」
 
 独り言を装ってはいるものの、明らかに灯に尋ねる口振りだった。彼女の気に入る色があるならば、それに合わせればいい。彼女は自分とお揃いの白を推すだろうか。それとも男性的な黒を? 何色にしたところで電話ができることには変わりがないのだ。そう大したことではない。
 
 明は「記念の品」とよべるものを嫌う。学校を卒業する時に作る文集や寄せ書きにも積極的に参加したことがなかった。中学まで、それを共に分かち合いたいと思えるような友人も居なかった。上辺だけの薄い付き合いに、記念すべきなにかがあるとは思われない。それは後で見ても、自分の希薄さを読みとるためにしか用をなさない、沈黙した聖遺物のようなものだ。
 同様に、携帯電話はただの道具である。動いている間は使うし、壊れたら捨ててしまう。
 彼が唯一の記念品として後生大事に持ち続けているのは、父親の形見となった腕時計だけ。母親と結婚した時に結納返しで送られたというそれは、さすがに高級時計だけあって、長い年月を過ぎてもガラス面に傷一つなく、父が死んでからは彼の左腕に昼夜問わずぶら下がっていた。
 
「黒とか良いわね、男の子、って感じがする」
「そうですねぇ。男性のお客様にはやっぱり黒が人気で…」
 
 店員はすでに、携帯の色一つ決められない優柔不断な男に見切りをつけて、積極的に買い物に口を出す女の方に神経を集中していた。女の方は大層な美人だから、この男はきっと不釣り合いをひどく気に病んでいるに違いない。トントン拍子に進んだ商談のさなか、そんなことを考える。
 
「じゃあ、黒で」
「はい。ありがとうございます! では、こちらでちょっと書類にご記入いただけますか? 今日は印鑑とか持ってらっしゃいます?」
「あ、書類はもう書いてきました」
 
 言って灯がハンドバッグから昨夜母親に埋めて貰った書類を取り出す。そこには、明が自筆で記入するところ以外、全て既に書かれていた。
 
「じゃあ、いただきますねー。…先にお会計済ませちゃってよろしいですか?」
「大丈夫ですよ」
「では…レジの方に」
 
 買うのは男の方のはずなのに、なぜ女が紙を取り出したのか。些細な疑問は、続く会計の手続きに紛れて忘れてしまった。毎日携帯の販売員をやっていれば、おかしな客はそれこそ星の数ほどやってくる。キャリアの与信が通らないこともあれば、手続きの長さに怒り出す客もいる。そんな有象無象の問題客に比べて、この二人組はそう印象に残らない。女の美しさと男の無定見が多少目を引くが、そんなのはそれこそ掃いて捨てるほどいる。
 店員は作り笑いを崩さずにレジのキーを叩いていた。

 
 
 

 
 
 

「やばいよやばいよ! 美希ちゃん! 灯さま、おデート!」
 
 三年になって予備校通いを親から提案された竹中真由子が、塾通いの仲間を求めて友人たちに声をかけたのが学期の初め。最初に声を掛けた灯には、すまなそうな顔で断られた。それもそのはず、灯の成績はかなりよい。家で勉強をする習慣がしっかりついているのか、それとも純粋に頭がよいのか、どんなテストでも学年で十番を下ることはないのだから、断られることは半ば予想していた。
 一方で、同時に誘った深谷美希はといえば、真由子と同じく成績はあまりよくない。美希の場合部活動に拘束される時間がネックになっているのだが、部活推薦を狙わない以上、ある程度の勉強はしておく必要がある。結果、親の快諾を得た美希はめでたく真由子と同じ予備校に通うことになったのである。
 
 この日、高三生対象としては初めての模試があり、駅前の柏校舎に詰めていた二人は、早朝から午後まで続いた苦行を終えて気分転換にアーケード街をぶらついていた。そこで灯の姿を見つけたのは偶然だったが、同時に邪気のない世間話に格好のネタを仕入れた格好になる。
 
「うわ、ほんとだ。灯さま本気モードだねぇ」
 
 同性の観察眼から見れば、灯の装いを以て「本気度」を測ることなどたやすい。退屈しのぎに覗いたゲームセンターの入り口付近に、灯の姿を見つけた美希にもすぐに分かった。 クラスの中でも灯のセンスの良さは際だっている。彼女が目を付けた服はいつも大人びて「かわい」かったから、友人の中には真似をする者も多い。部活動で知り合った後輩なども、いわゆる『灯さまモード』に憧れる者はが大勢いた。
 
「やっぱ声掛けちゃ不味いかな? ね、どう思う? 美希ちゃん」
「大丈夫じゃない? 隣にいるのアッキーだし」
「あれが?! この前言ってた!」
「うん。渋いでしょ? アッキー」
 
 頭一つ背の高い男が寄り添って灯の側に立っていた。アッキー。変なあだ名をつけられてしまった灯の弟だ。彼の方は、灯の華やかさに比して目立つところがない。髪はぼさぼさで、眉を整えているわけでもなければ、すらりと伸びた長身に見合う服を着ているわけでもない。汚れたスニーカーにジーンズを履いて、皺の寄った無地のシャツを着込んでいる。
 
「渋いね。たしかに。でも、素材としてはなかなかなんじゃないかなー」
「確かに」
 
 真由子の直截な感想に同意する。ただ背が高いだけといえばそれだけなのだが、たたずまいには静かな落ち着きがある。遠目には、普段ひどく大人びている灯が、逆に彼の懐の中ではしゃぐ幼い少女のように見えるのだ。
 
「ああいう弟いいなっ! 大人っぽい弟と可愛い姉! 小説みたいじゃん! やっぱソウシソウアイだよあれは。ね、美希ちゃん!」
「真由子はさ、あの弟さえ大人っぽくなればすぐそうなれるじゃん。『幼い姉』はクリアしてるし」
「可愛い姉、って言ったんだけど!」
「おんなじでしょー」
 
 まだ中学生の真由子の弟に、美希は何度か会ったことがある。野球部のレギュラーとして活動しているらしく、全身真っ黒に日焼けした坊主頭の少年だった。顔は悪くないし、口調も姉に比して礼儀正しいけれど、明のように、一歩間違えたら恋愛対象になってしまいそうな風情は微塵もない。年の差がそうさせるのか、生まれ持った雰囲気のせいなのか、明のほうがひどく大人に見えたのだ。
 
「どうする? 声掛けとく?」
「どうしよっか」
 
 いつの間にか二人はゲームセンターの中に入りこんでいた。灯が振り向けばすぐに目に留まる距離。友人の見慣れぬ姿に躊躇う彼女たちの思惑を飛び越えて、そのとき灯が振り向いた。
 
「美希……と、まゆも?」
「あー、偶然だねぇ」
 
 目が合ったきり立ちすくむ三人。最初に我に返ったのは灯だった。彼女は素早く、掴んでいた明の服の裾を離すと、ぎこちない笑みを浮かべて聞いた。
 
「この前言っていた予備校?」
「う、うん! そう。もう朝っぱらからだから参っちゃったよー。数学わけわかんない。今度灯さま教えてよ」
「ええ。いつでも」
「灯さまは?」
「わたしは…明の携帯電話を買いに来たのよ。明が携帯買うの初めてだっていうから、ね? 明」
 
 唐突に話を振られて一瞬虚を突かれるが、持ち直した明が答える。
 
「そうなんですよ。本当に助かりました」
 
 案外に友好的な彼の言葉を皮切りに、場の緊張がふっと溶けた。
 
「えっと、灯さまの弟でしょ? 明くんだよねー」
 
 真由子が底抜けに明るく語りかける。彼はいつもの薄い笑みを張り付かせて小さく頭を下げて言った。
 
「はい。高江です。はじめまして」
「そっかそっかー。アッキー超果報者だよ? 灯さま独り占めなんて」
「ア、アッキー?」
「うん。アキラだから」
「ああ、なるほど。……やっぱり天嵩先輩人気あるんですね。おれも友達に見られちゃったらやばいなぁ。冤罪で打ち首獄門ですよ」
「…もう、馬鹿なこと言わないで。わたしは別に…」
 
 弟の冗談めかした言葉に微量の不安と、それを塗りつぶす焦りを感じて灯が会話をかぶせる。
 
「天嵩先輩って、なんか他人行儀じゃない? アッキーだめだよー。お姉ちゃんって呼ぼ…」
「まゆ!」
 
 声を揃えて制止する美希と灯を、真由子は訳が分からないといった態で振り返る。
 
「ん? どうしたの?」
 
 ナチュラルボーントラブルメイカー。そんな真由子の評判はやはり正しいのだと美希は思う。邪気のない言動で男たちを振り回す。あからさまなアプローチに気付かない振りをするかと思えば、脈のなさそうなクラスメイトに誘惑まがいの仕草で迫る。彼女が恨みを買わないで済んでいるのは、きっと彼女が「天然」だと思われているからだ。
 ロリータパンクの原色がよく似合う、背の低い、明るい女の子。ボブカットの裾にシャギーを入れて軽く膨らませた髪型。丸顔に大きな瞳。体内に元気の素を詰め込んだ天真爛漫な天然少女。一見してだれもがそんなイメージを抱く真由子だが、その彼女が「天然」だという保証はどこにもない。
 
 よく考えてみると、この三人がよくも友達でいられたものだ。改めて美希はそう感じる。趣味にも容姿にもなんら共通点が見つけられないグループだが、むしろそれがよかったのかも知れない。美希個人に限ってみれば、目指す「路線」が違うおかげで友人たちの美点に嫉妬することはなかった。正当派の美人である灯にもカワイイ系の真由子にもコンプレックスを抱かずにすんだのは、やはりこの差異のおかげである。
 
「で、プリクラ?」
「ええ。明が初めてだっていうから。ね、明?」
「そうですね」
 
 プリクラの撮影機の前でじっと注意書きに読みふけっている明が振り向いて答えた。世に出た当初はいざしらず、今やブームではなく、当たり前の日常に溶けてしまったプリクラという習慣だが、明にはとんと縁がない代物だった。そしてまた、縁を結びたいとも考えていない。
 機種受け渡しの待ち時間に入ったゲームセンターで、唐突にプリクラを撮りましょうと提案した姉に、あえて異を唱えようとはしなかった。世辞に疎そうな灯がこういった「流行り物」に興味を持っているのがおかしく、また意外でもあった。だから彼の誤算があるとすれば、それはプリクラがもはや「流行り物」ではないのを知らなかったことと、姉の友人たちと遭遇してしまったことだろう。
 
 姉の友人――おそらくは――である美希に対して、先日昼休みにひどい対応をしてしまった。感情の高ぶりを抑えきれずに、本心を見せてしまった。諍いとすら言えない小さな騒ぎが彼を反省させる。昨日の静とのごたごたといい、最近調子がおかしい。
 だからせめてこの姉とだけは、平坦な関係を築いておかねばならない。強い感情はいつもやっかい事を引き起こす。彼はよく分かっていた。
 
「もう撮ったの?」
「まだよ。今、明にやり方を説明していたところ」
 
 なぜか誇らしげに灯が言う。尻馬に乗ったのは今度は美希だった。
 
「じゃあ、高江くんのプリクラ初体験を済ませたら、後はみんなで撮ろうか」
「美希ちゃんエロいよー」
「エロくないから。ほら、天嵩姉弟、さくっと…」
 
 美希の言葉は何気ないものだった。
 明は無言だった。
 
――天嵩姉弟だと?!
 
 鏡面のように平らかな心の水面が一瞬で強烈に波立つのを彼は奥歯を噛みしめてじっと堪えた。いつもこうだ。
 強い感情はライターの着火に似ている。まず、胴体に蓄えたガスを放出する。そのあと火打ち石が回り…。
 
 火花がガスに火をつける。
 
「明?」
「あ、はい」
 
 灯に手を引かれて彼はなすがまま、シートをくぐり撮影機の前に立つ。
 たった一枚ヴェールを引かれただけのはずなのに、薄暗い矩形の空間は外の喧噪を完全に閉め出していた。
 
「ね、明、ちょっと屈んでみて?」
 
 指示されたとおり屈むと、彼の顔と灯の顔がちょうど同じ高さになってディスプレイに映し出された。
 
「フレームはなにがいいかしら」
 
 小首を傾げて悩む少女を、言いつけ通り中腰のまま見守る自分が滑稽な気がした。彼は心中の自嘲を振り払うために、同じく画面の中をのぞき込む。
 
 ファンシーグッズのキャラクタが描かれたものや種類も分からない原色の花があしらわれたものなど、様々なフレームを眺めながら、灯は画面をスクロールしていく。二回ほどページを送ったところで、明はそれを見つけた。
 
 他のものに比べるとシンプルすぎて寂しささえ感じさせるそれは、絵画の額縁を模したものなのだろう。青みがかった黒の枠が、自分たちの顔を映した領域の回りを囲む。
 自分がなぜそれを気に入ったのか明には分からなかった。ただ単純に素っ気ないデザインを求めていたのかもしれないし、あるいは、毎晩眺めるあの忌まわしい物体――父の遺影――を思い起こさせたからかもしれない。
 
「これなんかどうですか?」
「いいわ。じゃあ、これにしましょう」
 
 サンプリングされたと思しき、不自然に明るい女声のアナウンスが流れている。設定が終わって初めて彼はそのことに気が付いた。
『準備はいい? 行くよ!』
子供向けの砕けた言葉遣いでアナウンスが撮影の時を告げる。
 
――そういえば、「あの写真」はいつ撮った物なのだろう。
 
 フラッシュが炊かれる一瞬、彼はそんなことを考える。黒い質素な額に抱かれた遺影の中の父親はかなり若い。写真の類を全く撮らなかった明との生活の中で撮られた物ではありえない。するとあれは、天嵩の家にあったものなのだろうか。ひょっとしたら、母親と結婚したときの記念写真なのかもしれない。 
 我ながら突飛で皮肉な発想だと、彼は低く笑った。
 
 
 そしてシャッターが下ろされた。
 彼にとって初めての家族写真は、切手を少し大きくしたくらいのちっぽけな物だった。







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