「おまえ、何がしたいんだよ」
「うっさい」
長い沈黙の後でそう尋ねた孝太郎に、静の答えはひどく素っ気ないものだった。明の住む団地を出ると、外は日暮れの柔らかい残光に染め上げられていて、とぼとぼと擬音を立てんばかりにしぼんだ二人の足音がその中に溶けていく。
先刻灯にはたかれた彼女の頬は、時間の経過とともに真っ赤に腫れ上がり、鈍痛を感じるがままに静は黙りこくっていた。
「ねじ曲がり過ぎだぞ。明のこと好きなんだろうが。ずいぶん複雑な反応じゃん?」
「うるさい! そんなんじゃない!」
「別に良いけどな。あんま迷惑かけんな。あいつもいろいろ忙しいんだから」
「…」
あえて突き放す彼の言葉に、言い返そうと口を開きかけてやめた。彼女は考える。何かきっかけが必要なのだ。彼女は人を好きになったことがない。しかし、好きに「ならなければ」ならない。なぜなら周囲の友人たちが皆、恋を大切と言うからだ。
強く目を閉じて、心にわき上がる徒労感を押し込める。そしてつぶやいた。
「ねえ坂下」
「ん?」
「あんた今カノジョ居たっけ?」
「ああ、いるよ。4組のやつ」
「だれ? 彰子ちゃん?」
「いや。上月美帆」
「ああ、上月さんなんだ。しらんかったわ」
声が徐々に平静を取り戻しつつある。それは好転の証だと思った孝太郎は、更に続けた。
「先月バスケの大会あったじゃん? あの後告られて。まぁいいかな、って」
「ふーん。あの娘どう?」
「どうってなにが?」
「フィーリングとして。やっぱグッと来るもんなの?」
恋愛巧者を装う普段の静からは聞くことができない質問だった。いつもならばここで滔々と恋愛論を一つ語り始めるところ。しかし今日の静にそんなそぶりは見えない。
「愛してるか、とか聞かれたら分からないけど、一緒にいてイイ感じではある。可愛いし」
「のろけんな。確かに上月さん可愛いけどさー」
静と美帆は友人関係にはない。二人が知り合いだったとしたら、彼との仲を静が知らないはずがないのだからそれは確かだ。
何を考えているのか、静は再び黙り込んでしまう。
「恋とか愛とかそういうもんではないなぁ。やっぱり」
「じゃあなんで?」
「可愛いじゃん。手とかちっちゃくてさ。肌もつるつるで、触ってると気持ちいいし」
「げぇ。キモい。変態」
「キモくねえよ。そんなもんだろう。実際」
「じゃあさ、坂下…」
一瞬口ごもる。彼は横目に静の表情を確かめ、そして促す。
「なに?」
「あんたはさ、すごい熱い恋愛したい、とかおもわんの?」
「いや、思うよ。そりゃ思うさ。でも無理だろ。そんなん宝くじに当たるようなもんで、普通はないんじゃね?」
「じゃあさじゃあさ!」
「なに?」
今度の沈黙は長い。二人の革靴が地面を叩く音がやけに強く響く。この静寂。孝太郎にも覚えがある。
試合の後、控え室を出たところに待っていた上月美帆。真正面に立ちすくんだまま、二分ほど黙り込んでいた。告白されるのには慣れているけれど、やはりいつになっても落ち着かない。
自分が対象になっているのに比べれば、今回のそれは多少は気が楽だ。静が思いを打ち明ける対象は自分ではない。予行演習のようなものならば、ずいぶんと重荷の量も違うのだ。
「そんな適当でもいいのかな。あたし、分からないんよ。やっぱり高江のこと気になるんだけど、愛とかじゃないと思うし」
「つーかおまえ、なんで高江好きになったわけ?」
「それがさぁ。理由なし」
「あー」
「なに? そのやる気ない相づちは。ほら、二年だし、ここは一つ恋でも探そうと思い立ったわけよ。そういうのよくあるでしょ」
静は肩から掛けて脇で挟んだ通学鞄をぺちぺち叩く。真っ赤に染まった頬は夕日のせいではない。
「それで?」
「それで、あんたらとよく話すようになったじゃん。で、あんたはモテそうだから、モテなさそうな高江とかどうかなぁ、って」
「すげえ打算的」
「うっさい黙れ。でね、でね、高江をチェックしてたんだけど、よく見てると意外とほら…」
今度は小さな頭をぶんぶん振って、まとわりつく気恥ずかしさを振り払おうと必死になる。
「おまえ意外といい目してんな。いいじゃん。高江。掘り出し物の優良物件だぞ」
「だよねだよね! 坂下あんた、分かってるじゃん。ただのバスケ馬鹿の変態かと思ってたけど」
「熱田は口悪すぎ。もっとこう、おとなしさを装えよ。男は基本的におしとやか大好きなんだよ」
「そういうのってどうなのよ。だましてるみたいじゃん」
「当たり前だろうが。おれなんかすごいよ? もう、カノジョと会ってる時とか、すげえカッコつけてるもん」
「うわぁ、詐欺師。この詐欺師! 今度上月さんに忠告しとかなきゃ。坂下変態だよ、って」
彼は破顔一笑。笑みとともに、肩にのし掛かる嫌な空気が霧散していくのを感じていた。この流れならば聞ける。最後に残った最大の懸念を、何気ない風を装って口に出した。
「まぁ、それはおいといて、天嵩先輩についてはどうなのよ」
途端にしぼむ静の表情に、彼は自分の拙速を悟る。小さな口をきつく結んで俯く姿は、いつもの大きな態度に比して、ひどく儚げに見えるのだ。
「ねえ坂下…」
「うん?」
「やっぱりさ、先輩、高江と…」
「どうだろ。おれもわからん」
会社帰りのサラリーマンで混雑する駅前で重たい話はしたくない。孝太郎はそう思った。肩を落として地面を見つめる静に掛ける言葉が思いつかない。何を言ってもうまく行かない気がするのだ。天嵩灯の態度は明白だった。付き合っていようがいまいが、とにかく明との関係が深いものであることは間違いない。
(なんでおれがこんな面倒なことに…)
彼は誰にも聞こえないため息を一つついて、明日が土曜日であることに感謝した。こんな状態のまま顔を合わせるのは不味い。
「まぁ、その、おいおい分かるでしょ。今夜でも聞いといてやるよ。な」
彼は努めて明るくそう言うと彼女の肩を軽く叩いた。顔を上げる少女の瞳には涙などない。ただうつろに、灯に打たれた頬をさすっていた。
「じゃあ、また月曜にな」
髪を後ろで縛ってエプロンをつけた姉の姿は、彼にある種の感慨を呼び起こす。冬の部屋に放置されて冷え切ったストーブに灯がともるように、ぼぅと橙色の光がわき上がる。父親と二人の生活が刻んだテーブルの傷を人差し指で撫でながら、明はそんなことを考えている。
孝太郎と静が灯の剣幕に追い散らされてから、もう三時間も経つ。夕食を作ると勢いごんで昼間に買い込んできた食材の袋を漁る灯の態度からは、先ほどの小競り合いの影響は見えない。時折鼻歌混じりにてきぱきと具材をより分けていく。強制的に父親の半纏を着せられて、リビングの椅子に一人ぼうっと座る彼はただじっとその後ろ姿を見ていた。
そして、いいかげん退屈を持て余したところに姉の声が飛び込んできた。
「さぁ、リクエストあるかしら?」
準備万端整って、誇らしげに胸をはる灯がふと可愛らしく思えたものだから、慌ててその感情を打ち消すしかない。
「特にないです。本当にすみません。食事まで作って貰っちゃって」
「もう。さっきから謝ってばっかり。気にしないでって言ってるのに」
「でもやっぱり変な気分ですよ」
「そうかしら? 弟にご飯を作ってあげるなんて、結構ありふれてるんじゃないかしら」
「どうなんでしょう」
またしてもやっかいな方向に話が進みそうになっていた。口を噤んで返答を避けた明をもどかしく思う灯だが、この段階でこれ以上踏み込むのは得策ではないことも分かっていた。慣れた手つきでフライパンに油を引いて、細切れにした豚肉を放り込む。途端に部屋を覆う小さな破裂音の群は、油のにおいに包まれて、換気扇が煙を効率的に排出していく。
明はテーブルに頬杖をついていた。椅子の隙間に足をふらふらと揺らす様は、自身が気づかぬうちに幼時の面影を色濃く残していた。
「明」
「はい?」
「まだプラモデル作ってるの?」
「プラモ?」
「ええ。昔よく作ってたじゃない?」
調理場の雑音を押さえて灯が尋ねた。彼はキッチンを横目で見るが、背中を向けたままの彼女から表情を伺い知ることはできない。
「今は作ってないですよ。不器用だから、昔から一つも完成できたことないし」
「あなたのプラモ、ほら、飛行機のやつ。わたしが最後まで作ったのよ。子供の頃のやつよ」
「そうなんですか。…先輩がプラモって、似合わないですね」
「そうかしら。もう必死だったわ。説明書なんて暗記するくらい読んだし。昔一緒に作ったでしょう? そのときの経験が役に立ったんだわ」
そのころのことはほとんど覚えていない。だからきっと灯の言うとおり、自分はプラモデルが好きだったのだろうと思う。疑う理由はなにもない。問題なのは、自分の知らない過去を知っている女が居て、絶えず自分に「彼女の」過去を刷り込もうとすることだ。微熱混じりの頭で彼は考えていた。
「一番大変なのはね、シールを貼るところ。星の形のシールを羽根に付けるんだけど、一度水に浸して、浮き上がったぺらぺらのやつをピンセットで置いていくの」
コンロの火に掛けたフライパンを揺すりながら、灯は止めどなく喋り続ける。彼には姉の背中しか見えないから、彼女の表情までは分からない。だが、いつになく弾むその声が、灯の内心を何よりも雄弁に表していた。
「やっているうちにのめり込んじゃって、何冊か雑誌も買ったわ。本屋さんで店員さんに変な顔されたけど、ここまで来たらとことんやってやるんだ、って」
その頃のことを思い出しているのだろう。愉快そうに笑うその様に合わせて、彼も愛想笑いを返さざるを得ない。
「先輩、意外と凝り性ですか?」
「そう。わたし凝り性ね。『そこそこ』ができない人間なのかも。その飛行機に味をしめて、その後ロボットのプラモも買ってみたんだけど、あれはダメ。接着剤いらずで単調なんだから。…そうだ、明もあれなら大丈夫だわ!」
姉と膝をつき合わせて二人でロボットのプラモを作る。そんな光景を思い浮かべて明は苦笑した。
「ジグゾーパズルとか好きでしょう、先輩」
「なんで分かるの? 大好きよ」
「おれもパズル系は好きです。テトリスなんか、プロ級ですから」
「ファミコン?」
「いえ、ゲームボーイの方。一度始めたら三時間でも四時間でも」
プレゼントなど滅多に貰わず、またねだったこともなかった明にとって、一〇歳の誕生日に父親に与えられたゲームボーイはまさに宝物だった。本体と一緒に買って貰ったソフト二本、そのうちの一つがテトリスで、とにかく大のお気に入り。飽きもせずに暇を見つけてはプレーし続け、今ではほとんど無意識に指が動くまでになっている。
「先輩はゲームとかします? 女の人はあんまりしませんか?」
「わたしはゲーム機自体持ってなかった。でも、ちょっと興味あるわね。ご飯食べたらやらせてくれない?」
「いいですよ。でも、のめり込んで壊さないように」
「もう、馬鹿なこと言わないで。壊すわけないじゃない」
平気で冗談を飛ばす自分に彼は少し驚いていた。キッチンから匂い立つ中華料理の匂いが空きっ腹をひどく刺激している。食事を待つこの瞬間は至福のもので、この世のあらゆる警戒心を打ち崩してしまう。
思えば家で人と話ながら何かを食べること自体、もう一ヶ月ぶりになる。あるいは気が付いていなかっただけで、心の奥底で寂しがっていたのではないか。思い至って気恥ずかしいが、反発する気にもなれなかった。
白い湯気が立つフライパンから、装飾のない白い皿へ、野菜炒めが盛りつけられていく。電子炊飯器の蓋を開けると、凄い勢いで沸き上がる蒸気の向こうに、きらきらと白米が輝いている。
茶碗にご飯をよそう姉の手が抑えがたく恋しかった。
肩の筋肉がゆっくりと解れていく。
――これが餌付けってやつか。
このとき、明の皮肉混じりな感慨は、いつもの険を幾分か落としていたかもしれない。
頬を腫らして帰った静は、母親の質問におざなりな答えを返しながら自室に直行した。郊外に建つ一戸建ての二階、ベランダに出れば目と鼻の先に隣家の壁が見える。
開け放してあったカーテンを閉めると、淡々と制服を脱ぎ捨てて上下赤のスウェットに着替える。室内着でもあり寝間着でもあるそれを、動きやすさと着心地から彼女は気に入っている。
左頬の腫れはまだ引かない。そこだけが熱を持って、自分は凡百の皮膚たちとは違うのだと執拗にアピールするのだ。
脱ぎ散らかして放り投げた制服も構わずベッドに寝転がる。枕元に置かれたステレオのリモコンを取ると、慣れた手つきでボタンを操作し、しばらくして演奏が始まる。
バッハの平均律クラヴィーア曲集。水面を跳ねる小魚のようにはつらつと動く音符の群を頭で追っていると、ふと自分の滑稽さに暗澹たる気持ちになる。学校の友人たちと盛り上がるのは、いつも流行りの歌手ばかり。本当によく聴くのはクラシックだ、などと言えば、会話が白けてしまうに違いない。
小学生の時からピアノを習っていた。才能はなかったし、もちろん覚悟もなかった。毎週のレッスンは辛く、そこから達成感を得たこともない。課題曲は退屈で、教室の他の生徒たちと差が開いていくのが辛かった。
結局、中学三年生になり受験準備に忙しくなってはじめて踏ん切りがついた。ピアノをやめることを母に告げ、母もそれ以上強制しようとはしなかった。
「あたし、馬鹿みたい」
部屋の四方に張られたポスターには、あるものは若手俳優の、あるものはミュージシャンの肖像が映されている。彼女は自問する。わたしはこの中の一人でも、本当に好きだったことがあるだろうか、と。
あるわけがない。全てその時々仲がよかった友人が騒いでいた対象に便乗しただけだ。静はこの思いこみの詐術が働く過程をよく知っている。全ての「好き」は思いこむことから始まる。対象を決め、それを「好んでいる自分」のレッテルを自身に貼るのだ。そして毎晩日課のように考える。好きなもののことを、ではない。「それを好きな自分」のことを考える。
――あたしは頭のてっぺんからつま先まで、全部着せ替え人形だ。
一七という年齢がそんな考えを彼女の脳裏に与えたのかもしれない。少女たちのほとんどが話題の中心に好んで恋愛を据えるのは、なにも女の
愛は全てを超越し、カレシを持つことほど素晴らしいことはない。愛には形がない。誰も見たことがなく、誰しもがみたいと思っている。そしてみんな、自分の見ているものが愛だと思いこんでいる。
仲のよい友人が一種熱に浮かされたように「すきなひと」の話をするのを聞いていると、本当に「愛」が存在するのだと思いこんでしまう。そして、その不定形な陽炎を垣間見たことすらない自分がひどく惨めに思えた。
世の中には、世界を相手に自分の命までも掛ける大恋愛があるらしい。冬の砂浜で絶叫するような愛があるらしく、破局のうえはビルの屋上から飛び降りる愛もある。翻って静には、とうていそんな感情を抱けそうにない。
学年も上がり一七歳になって、彼女は「コイ」をしようと決めた。その気になってみれば簡単なことだった。俳優やミュージシャンを「好きになる」のと同じ要領で、「好きになれ」ばよいのだ。
「高江…明」
彼は申し分ない対象だった。一見女の人気を集めるタイプではない。まずたたずまいが地味で、性格は穏やか。十人並な容姿を持つ苦労性の少年。人気のメインストリームにいない、ちょっと横道に外れた技巧派の俳優のファンになるのと同じ。ファンが「あの人は外見じゃないから」と言うように、静もまた「高江は掘り出し物なのだ」と言えばよい。
自分が見つけ、自分だけが「好きな」男。
今の彼女が演じているのは、どんな女だろう。天嵩灯という独特の雰囲気をもった綺麗な先輩が好きで――つまり、最先端の同性間感情を理解できて――一見ぱっとしない、しかしよく見るとそう悪くもない少年に陰ながらコイしている、少し変わった女の子。
灯に頬を殴られるまで、彼女はそんな自分が「好き」だった。
「もう、わけわかんない」
独り言を受け止めるのは、すっかり暗くなった自室の空気。電気をつけていないから、闇に慣れた瞳といえども細部まで見通すことはできない。今の自分はきっと「コイに悩む女の子」を体現している。そう思った。
浅い自嘲の後にやってきたのは、しかしどうにも分解できない怒りだった。自分が目を付けた男は売約済みだった。しかもお買いあげの女は、自分など太刀打ちできそうにない美貌とステータスを持っている。
濃紺の制服から伸びた真っ白な――比喩抜きで雪よりも白い――首筋も、枝毛一つ見えない柔らかいウェーブの髪も、全てが憎かった。行きつけの美容院で一万円以上掛けて染めた明るい茶色の髪さえ、その少女の深い、冷たい、長い黒髪と比べると、薄汚れて見えた。
瞼を閉じると天嵩灯の顔が浮かぶ。自分を睨み付ける大きな両の瞳は、一瞬細く切れ上がる。きつく閉じた唇の薄さが、芯の強い内面を雄弁に物語っていた。
「先輩じゃ…勝てないよなぁ」
大きな枕に顔を埋めて静は力の限りに目をつぶった。しかし、脳裏に焼き付いた映像は決して消えない。
ただ、頬の鈍痛だけがそこにあった。
「あ、倖さんですか? 今、明の家にいるんです。…もう少ししたら帰りますけど…。はい。…えっ? いいんですか? じゃあ、お願いしますね…」
その後何度か礼を口にして、灯は携帯の通話を切った。時刻はすでに八時を回っている。弟と一緒に食事もすませてしまったから、取りあえず連絡を入れておこうと叔母の携帯に電話を掛けたところ、仕事から帰る途中に車で拾ってくれるという。天嵩の家は、歩くにしても電車を使うにしても、とても近所とは言えない距離にある。実際帰りの道程を煩わしく思っていたところだから、叔母の申し出にありがたく乗ることにしたのだ。
「ごめんなさい。夜遅くなるときは電話しろって言われてるのよ。最近なにかと物騒でしょう?」
「確かに女の人の一人歩きは怖いですよね。…なんか、お引き留めしちゃってすみません」
「そんなこと言わないで。わたしも楽しかった。この…」
「テトリス?」
「そう。テトリス。結構難しいものなのね。落ちるテンポが速くなってくると慌てちゃって駄目だわ」
「慣れないと確かにそうかもしれないですね。まぁ、おれに勝とうなんて、いくら先輩といえども十年早いぞ、ってことで」
明はそう言って、手に持ったゲーム機を掲げながら笑った。
「むっ。ちょっと貸しなさい。わたしだって慣れれば」
弟の手からテトリス専用機と化したゲームボーイをむしり取る灯の顔にも、平素滅多に見せない掛け値なしの笑みが浮かんでいる。
小さな画面に二人膝を付き合わせて見入っていた。オールマイティ、死角なしという彼女の風評からすると意外にも、灯はこういったパズルゲームが得意ではなかった。
序盤こそ堅実にブロックを消していくのだが、少し経つと欲が出て、四列一気に消そうと大技をねらう。息を潜めてストレートブロックを待っているところに、ちぐはぐな形しか落ちて来ず、最終的にブロックが上まで積み上がってしまう。
模範演技として明がやってみせた鮮やかな多段消しを目指しているのだろうが、一度ならいざ知らず、連続してのそれは素人のよくするところではない。明はそう言っていさるけれど、灯は最後まで聞かなかった。
姉の案外な頑固さをほほえましく思ったのか、あれこれと自己の近況を語り合いながらのプレーが一時間を過ぎる頃には、明はいつもの落ち着きを多少和らげて、ぞんざいな口調もちらほら出始める。
「レベル5とか10でそれじゃあ、先が思いやられるなぁ」
「うう、今に見てなさい。確かこの携帯にもテトリス入ってるんだから。今度やるときは明が泣きつく番ね」
「楽しみに待ってますよ。……それはそうと、携帯ってゲームできるんですか?」
「ええ。最近の新しいやつはできるみたい。今まで一度も弄ってなかったけど、これからお世話になりそうだわ」
ちょっと見せてくださいよ。そう言われて灯は自分の携帯を開いた。
「明のやつにも何か入ってるんじゃないかしら。テトリスが入っているかどうかは分からないけど。…そうだ、明、携帯の番号、教えてくれない?」
「おれ、携帯持ってないんですよ」
「そうなの? なぜ?」
「いや、あんまり必要も感じないし、そもそも契約できませんから」
「…お金?」
なぜか申し訳なさそうに聞いた彼女に、明はあっさりと答えた。
「いや、未成年ですから。契約するには保護者の了承とかいうのがいるでしょ」
「明の保護者って、お母さんよね?」
「そうみたいですね。でも、なんかかっこわるくありません? 携帯買いたいから一筆書いてくれなんて言えないですよ」
彼にしてみれば、そんなことで天嵩の家を訪れるなど悪夢以外のなにものでもない。大体どう切り出せばいいのかすら分からない。
母親がそこにいる。それは分かっている。しかし今の彼にとって、母は誰よりも遠い他人だった。今こうして見舞いがてらに食事まで作ってもらい、あげくはゲームで遊んでいる灯にしても、姉という肉親のカテゴリを思い起こさせる感情は薄い。「彼女」カテゴリのほうがまだしも現実感を持っているくらいに。
「そう…なの」
「はい。電話かける相手もあんまりいないですからね。…正直テトリスは魅力的ですけど」
軽い冗談のつもりだった。だが、沈思の態で黙り込んだ灯には、それが天啓に思えたのだろう。ぱっと顔を上げると勢い込んで言い放つ。
「ね、明、明日買いに行きましょう! 土曜日だから学校もお休みだし。委任状は今晩お母さんに書いて貰うわ。わたしと同じこの機種なら、古いやつだからタダで買えると思うの。……どうかしら? テトリスできるわよ?」
「ううん、ええっと」
――本気でテトリスで釣れると思ってるのか…。
苦笑するしかない。この年になってゲーム一つで携帯に飛びつくわけがない。だが、一方で、そんな間の抜けた彼女の誘いも不快ではないと思っていることに、自身気がづいていた。
ずいと身体を寄せて上目遣いにこちらを伺う灯の顔には、隠然と期待が見える。髪の中から少しだけ見える耳の先が真っ赤に染まっている。さんざん世話になってしまった今となっては無碍に断ることも叶わない。何よりも、肩車をねだる幼子のような表情が、普段の毅然とした顔立ちに対する落差となって、一層拒絶できない雰囲気を醸し出していた。
――前から欲しかったんだ。別にこの人に乗せられたわけじゃない。
言い訳じみているのは自分でも分かっていたけれど、すでに大勢は決していた。
「はぁ。じゃあ、お願いします。手間掛けちゃってすみません」
「いいのよ。気にしないで」
「ありがとうございます」
灯の髪がぱたぱたと揺れる。
人が喜ぶ姿は悪くない。明はそう思う。少なくとも、喜ばせていられる限り、自分に向かって来ることもないからだ。それにしてもこの少女――姉は、なぜこんなにも開けっぴろげに自分を見せるのか。感情の素直な発露ができる。それはきっと素晴らしいことなのだろう。他人事ではあるけれど、多少のうらやましさがあったかもしれない。
「おれ、六時ころ配達終わるんですけど、そこから少し寝たいから…昼頃でどうですか?」
「それでいいわ。でも、熱が落ちたからってまだ病み上がりなんだから無理はしないで。誘ったわたしが言うのはおかしいけど、辛かったら言ってちょうだい」
今度は年上風を吹かして、諭すように灯が言う。
「たぶん大丈夫ですよ。身体が資本ですから」
「そう。あなたが今朝玄関で倒れたときは大変だったのよ? 倖さんと二人で汗だくになりながらお布団に運んだんだから。今身長いくつ?」
「182か3です。確か」
「すごい! わたしは160センチちょうど。20センチも差があるのよ」
「女の人としては高いほうじゃないですか?」
「ええ。クラスでも女子の中では大きい方よ」
答えて心持ち胸を張る灯。彼は無意識に、その大きく盛り上がった胸に視線を注いでしまう。そして短い沈黙の後、ふと気が付いて目をそらした。
形容しがたい気恥ずかしさを持て余し、あぐらを解いて床から立ち上がるとキッチンの食卓へ歩いていく。突然動いた明を、当人の灯はきょとんと見送るだけだった。
「そ、そういえば、
「ええ、そう。お母さんの妹。いい人よ。綺麗で頭も良くて、わたしの目標、かしら。ファッション雑誌の編集をしているの」
「へえ、いわゆる業界人ですね。…先輩もモデルとかできるんじゃないですか?」
「もう、馬鹿なこと言わないで」
明日の約束を取り付けてようやく白に戻った耳の先が、休む間もなく再び赤みを帯びる。 今度は灯が気恥ずかしく思う番だった。実際彼女は去年の夏に一度、叔母の雑誌でモデルのまねごとをやったことがある。ページの隅にスペースの穴埋めで掲載されただけだから、大事にはならなかったが、雑誌のその号を持っている友人には今でも時々冷やかされる。
「今秋、カレシを引き寄せる勝負服はコレ!」
そんなタイトルのついた特集で、着たのはいかにも男受けしそうな――叔母に聞いた限り――ワンピースに、ショール形状のニット。仕事のお礼にと、そのとき着た服は叔母がプレゼントしてくれたのだ。
(明日はあれを着ていこう)
初秋の特集だったから、春の初めの今の季節にも十分着られるだろう。クリーム色のワンピースに合わせるアクセサリはどんなものがよいだろう。バッグはどうしよう。
畳にぺたりと座りながらコーディネートの素案を考え始めていた。
「こんばんわ。明くん」
「どうも、初めまして」
短いブザー音に気が付いた明が応対に出ると、玄関先には倖が立っていた。
細身のスラックスに、襟が大きく取られた七分丈のシャツがよく似合う、大人の女のイメージを体現にしたような姿に、つい灯の10年後を想像してしまう。
「倖さん。ありがとう」
「いいのよ。アカリは夜遊び全然しないから。そっちのほうが心配ってもんよ。それで、明くんはどう? 元気になった?」
「おかげさまで。先輩にいろいろ世話になりまして」
先輩と聞いて、倖の瞳がきらりと光った。
「他人行儀なんじゃないのぉ? 名前で呼んであげなさいよ。もしくは『お姉ちゃん』とか」
「ははは。さすがにそれは不味いですよ」
明はこの手のからかいをひどく嫌う。先日彼女と同席した美希に一瞬見せた反応からもはっきりしている。だが、今このとき、彼は剣呑な態度を示すこともなく平然としている。灯は隠れて胸をなで下ろし、話を変えるために口を出した。
「倖さんは、明のこと、初めてじゃないですよね?」
「うん。明くんが小学生の頃会ってる。あのころはわたしのお腹くらいまでしかなかったのに、今じゃ見上げなきゃ話せないんだもん。そりゃ年も取るはずだわ」
「すみません。覚えてなくて」
「いいのよ。子供の頃の事なんて年取ってから思い出せばいいの。…まだ一六? 一七?」
「まだ一六ですね。今年で一七になります」
「若い若い。わたしなんて今年で三一よ。もう立派なおばさん」
髪を掻き上げながら冗談めかして倖が言った。こういうとき、何も言わないことこそが最良の道なのだ。明は黙って、口もとをほころばせるに止める。
会話の途切れたところに、倖の目は彼の全身に注がれる。それはなじみ深い、しかしいつまで経っても慣れない値踏みの視線だ。今まで一〇年近く、いつも肌で感じてきた。
動物は本能的に相手を測りたがる。「不躾」という言葉が本能を縛っても、結局相手を見定めずにはいられない。
ぎこちない笑みを大急ぎで張り付けて、彼はなめ回されるままに立っていた。
「何か飲んでいきますか? 立ち話も…」
「いえ。もう遅いし。そろそろお邪魔するわ。これからもこの子をよろしくね。明くんはしっかりしていそうだから」
「もう、倖さん! 馬鹿なこと言わないで」
「ほら、この子
食ってかかる灯をいなしつつ、倖の目は明のそれを鷲掴みにして離さない。首の裏にちりちりと電気が走る。そんな感じ。しかし顔には人畜無害な笑みを浮かべたまま、首肯を繰り返す。
「明日は駅の時計台のところでお昼にね?」
「はい。了解です」
「じゃあ、お休みなさい。ちゃんと寝て。夜更かししてゲームとかはだめよ」
「そんなことしないですって。…お休みなさい」
靴を履き、玄関を出る姉の後ろ姿を、ぼんやりと見送った。灯がいなくなった部屋は途端にいつもの静けさを取り戻し、彼もまたいつもの無表情に帰る。
玄関の照明を消し、リビングに戻ると、部屋が何倍にも大きくなったように感じられた。
「寝るか」
彼は大きな部屋が嫌いではない。
しかし、小さな部屋も悪くない。
そう思った。
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